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「野菜の種、いまむかし」

第十一回「トウガラシ、シシトウ、ピーマン、パプリカの話」

掲載誌『野菜だより』2010/春号/P72,73
2010.2.16/学習研究社刊 \940.(税込)

 名前も、形も、色も、そして味も、みんな違いますが、これらはすべてナス科トウガラシ属の同一植物です。1492年、コロンブスがインドと間違えてアメリカに到達した時、インド原産の木の実であるコショウと勘違いしてトウガラシをヨーロッパに持ち帰ったため、コショウと同じペッパーという名で呼ばれるようになりました。
 ヨーロッパに広がったトウガラシは、1600年頃にポルトガル人によって日本に伝わり、「南蛮胡椒」と呼ばれました。(現在も九州ではトウガラシをコショウと呼びますし、ナンバンと呼ぶ地方もあります)沖縄では島トウガラシを「高麗胡椒(コーレーグース)」と言い「朝鮮または中国から渡来した」と言われていますが、キムチとトウガラシの国である韓国では、逆に「トウガラシ(コチュ)の語源は日本語のコショウで、日本から渡来した」と広く信じられているのもおもしろい話です。
 トウガラシの辛味成分であるカプサイシンは、暑い地域ほど多く発現するそうです。南米からヨーロッパに渡ったトウガラシの中から、18世紀になって、カプサイシンの発現量の少ない、辛くない品種が生まれました。やがてピーマンやパプリカの誕生につながる甘トウガラシ、スイートペッパーの誕生です。カプサイシンが少なくなったのは、冷涼な気候に適応して遺伝子が変化したためで、こうした自然な変化は、既存の遺伝子の欠如によって起こります。ヨーロッパに渡った人類の中から、紫外線を吸収するメラニン色素を発現する遺伝子が少なくなって、白人や金髪が生まれたのと同じ現象で、こうした遺伝子の減少で生まれた性質は、遺伝的には潜性(劣性)です。従って、既存の辛いトウガラシと交雑すると、一代目の子は顕性(優性)の辛いトウガラシになってしまいます。
 江戸時代に日本に渡来したトウガラシも、当初は辛い品種ばかりでした。「鷹ノ爪」は、辛味が最も強く、横に広がった枝に小さな果実が上向きに次々になります。「八房(やつぶさ)」は、立性で節間が狭く、葉の上に顔を出して一斉に実るので収穫が楽なため、七味唐辛子などの加工用に大量栽培されました。「伏見」は、下を向いてなる長い実に特徴がありました。「日光」は、伏見のように長い実で、ウリをくりぬいた中に詰める鉄砲漬の材料として長い歴史があります。
 やがて京都の「伏見」系の辛いトウガラシの中から、現在京野菜の代表格として著名な「伏見甘長唐辛子」が生まれ、シシトウの元祖と目される「田中」なども誕生しますが、これらの甘トウがいつ、どのようにして生まれたのか、はっきりしたことはわかりません。
 明治44年発行の『農業世界増刊・蔬菜改良案内』では、辛いトウガラシの記述の末尾に「京都付近にては主に蔬菜として用う。但し蔬菜用のものは辛味の少なき品種なり」とあり、また元京都府立農業試験場長・林義雄が昭和50年に著した『京の野菜記』では「田中とうがらしはししとうがらしともいって、唐獅子の口のような格好をしたとうがらしである。明治以前から田中村で作っていたが、辛すぎるものもあって大衆に受けず、おもに料理屋むけに作っていた。(中略)昭和初期から和歌山県に導入され、現在では全国的に産地が広がっている」と記述しています。「伏見甘」は京都にとどまって伝統野菜として成功し、シシトウは全国に広まって大衆化に成功したというわけです。(現在全国一のシシトウ産地は高知県南国市だそうです。2010.9.24注)
 引用のように、固定種時代のシシトウや甘トウの中には、ときおり辛いものが出て、種屋へのクレームの原因になりました。本来ナス科ですから、自家受粉性植物のはずですが、訪花昆虫の種類が多いためか、トウガラシの他家受粉率は、5〜20%と言われるくらい高く、トマトやナスよりも交雑しやすいようです。また、交雑していない甘トウガラシにも、少量のカプサイシンがあるので、高温乾燥や低温で成長が遅れると、果実に含まれる辛味成分の蓄積が多くなり、辛味を感じてしまうことがあるようです。ピーマンでも、辛味が出たために産地が存亡の危機に陥ったことがあるそうです。(猛暑の2010年は、ピーマンが辛くなったという声がお客様から届きました。暑さでカプサイシンを発現する遺伝子が復活したのかもしれません。2010.9.24注)
 ピーマンの品種改良が最も進んだのはアメリカで、1828年にできた「カリフォルニアワンダー」は、肉厚の大果で、今でも固定種の「魁(さきがけ)」などにその血が受け継がれています。
 肉詰め料理などに使われていた肉厚ピーマンの果肉が、薄くて細身になったのは、F1時代になってからで、中国にあった獅子型ピーマンと交配したことによる変化と言われています。最近までF1ピーマンの作り方は、母親品種の雄しべを蕾のうちに引き抜いて、残された雌しべに異品種の花粉を付ける「除雄」という技術で作られていましたが、1986年頃に高知で「昌介」という品種から、また1990年頃に長野で「東京ピーマン」という品種から花粉が出ない「雄性不稔株」が見つかったため、研究機関では雄性不稔利用へと一斉に舵をきっています。まだ不整形な果実が多いらしく、雄性不稔F1ピーマン誕生の話は聞いていませんが、接木台木用の品種や「葵ししとう」というシシトウなどで商品化されはじめました。(前述のシシトウ産地南国市では、栽培品種のほとんどが既に「葵ししとう」に代わったそうです。2010.9.24注)
 赤やオレンジ、黄色などカラフルで甘いパプリカは、始めはオランダからの輸入品で、オランダパプリカと呼ばれていました。「昔のカリフォルニアワンダーの完熟果を使っている」という説があったように、肉厚でジャンボな形は、カラーピーマンの象徴でした。これだけ大きな果実を赤く完熟するまで枝に着けておくためには、高いガラス温室のような設備と大量の燃料、それに一枝に一果という整枝摘果技術と、非常に長い栽培期間が必要です。露地で雨に当たると熟す途中で腐ってしまう大形パプリカは、家庭菜園で作れるような代物ではないのです。このパプリカを、日本の小型のビニールハウスでも作れるようにしようと、現在のF1ピーマンのような小型で肉の薄い品種への改良が進められています。そのうち家庭菜園でも手軽に栽培できるF1パプリカがお目見えするかも知れません。でもその新品種は、きっと雄性不稔F1で、子孫を残せない生命になっているのでしょう。


『野菜だより』連載の「野菜の種、いまむかし」は、この号で最終回となりました。
ご愛読ありがとうございました。[2010.3.9]
連載打ち切りで「やれやれ終わった」と、ホッとしたまま、最後のTEXTをこのHPに掲載するのを忘れていました。[2010.9.24]

追記
掲載誌『野菜だより』のバックナンバーが入手できないという声をいただいたので、ここに再録します。
現在も書店で入手できる号は掲載しませんので、お近くの書店でお買い求めください。
(2009.3.25)

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