自家不和合性の利用について書いた前のページを作ってから、3年以上経ってしまいました。
いよいよ難物の「細胞質雄性不稔」利用の交配種の作り方にチャレンジです。
昨年(2005)日本種苗協会埼玉県支部の会合で、タネ屋の大先輩の野原種苗社長にお会いした際、「単為結果トマトのネネがF1なのか固定種なのか、どうもよくわからない。F1にしちゃ味も大きさもバラつきが多いようで…」と嘆いたところ、
「単為結果は、F1にした時発現するんだよ。素材さえあれば作る過程はそんなに難しいもんじゃない。それより俺は雄性不稔のほうがどうにもわからない」と、返されたので、千葉大園芸学部で育種を専攻され、日種協の幹部でもある野原さんでもそうなのか。と、驚きました。
「僕は、雄性不稔のほうは、なんとなくわかってきたんですけど」と応えましたが、もちろん僕の理解というのは、農学には素人の文系なりの理解で、実際にF1育種を進めなければならない野原社長の理解とは比較にならない浅さなのですが、素人が素人なりの直感で、わかったなりのことを書いてみることも、世間一般にはまったくのブラックスボックスである種苗業というものの中身を、一般の人に理解してもらうための一助として、あながち無駄なことでもあるまい。と、蛮勇を奮って書いてみます。
「交配種は、一代雑種という本来の名称のとおり、『雑種強勢』という生命が持つ不思議な仕組みによって、雑種一代目の子に限って、異なる両親の優性因子だけが現れ、均一で強い性質を示すという現象を利用した育種法です。」と、前のところで書きましたが、現在の種苗業界の主流である「雄性不稔の利用」は、「雑種強勢の発現」には、あまりこだわっていないようです。それより、ミニトマトの糖度を高めるとか、人参を芯まで赤くするとか、 市場の要求に応えて揃いをよくして上物率を上げるとか、そんなことのために使われることが多いようです。ま、これは、日本のF1野菜生産技術が既に一定のレベルに達していて、新たな付加価値をどう付けるかが重要になったから。とも言えるわけですが、根本的に、「雄性不稔」株の発見を、偶然に頼らざるを得ないことが原因のような気がします。「雄性不稔利用のF1」は、雄性不稔株以外の母親を、選べないのです。
ずっと以前、園研(財団法人日本園芸生産研究所)のある先生が、「野口さん、ネギの雄性不稔株を見つけたよ。これでネギのF1作りの第一歩が踏み出せる」と、実にうれしそうにおっしゃいました。ただ、当時の僕には、それがどれほど貴重な発見かがわからず、あいまいな返事をしただけでした。残念ながらその先生は間もなくお亡くなりになって、ネギのF1作りも園研の仕事からは消えてしまったようです。
「雄性不稔株さえ見つければ、除雄がいらない。F1作りにとって万能の方法論だ」ということがわかったのは、その後しばらくたってのことでした。
ちと長い前置きはこのくらいにして、さて肝心の「細胞質雄性不稔とは何か?」と言うと、雄性不稔とは男性に原因がある不妊のこと。つまり、人間に例えればインポとか無精子症です。(笑)
人間の場合、インポなど生殖機能が不完全な男性は、1万人に1人ぐらいの割でいるそうですが、植物でも稀に見つかります。(小瀬菜大根という、根が太らない葉大根用のダイコンは、この雄性不稔出現率が高いため、多くのF1ダイコンの母親役として用いられているそうです。母親がインポというのはちょっと変ですが、あくまで植物ですから、花の中の雄しべでの話です)
雌しべは普通に機能するけれど、雄しべに健全な花粉ができないので、自分の花粉では受精できない不妊症の個体を、雄性不稔株と言うのです。健全な雄しべを持つ父親役の品種を近くに植えておけばその花粉でのみ受粉し、労せずして一代雑種の種が採種できる。と、いうわけです。ただ、この雄性不稔の母親株は、自分の子孫を殖やす力がありませんから、そのままでは一回限りで母親としての役割を終えてしまいます。毎年雄性不稔株を探していたら、維持しなければならない個体数も、見つけだす労力も膨大なものになりますし、なにより年々違う母親株になっては形質も安定しません。そのため、雄性不稔利用のF1作りは、雄性不稔株の発見と同時に、雄性不稔因子を内蔵させたまま種を実らせる「稔性回復因子」を持った「維持系統」と呼ばれる父親株の発見がペアで必要とされます。この維持系統には、雄性不稔株の同系種の中から、雄性不稔という不妊症を治す力のある個体が選抜されます。
(実は、このあたりが、まったくわかっていませんでした。上では「発見」なんて簡単に書いたのですが、実は、「戻し交配」によって産み出される「創造(限り無く複製に近いが)=まだよくわかりませんが」のようです。詳しくは下の「追記」を参照してください)
翻って、雄性不稔や男性原因の不妊がなぜ起るのかというと、植物でも動物でも、細胞内のミトコンドリアという器官にある遺伝子が、傷つき、変異するのが原因のようです。(このため細胞の核の中にある通常の遺伝子による不妊症と区別して、わざわざ「細胞"質"雄性不稔」と言います)最近の新聞報道(下図)で、「(人間の)男性不妊の原因がミトコンドリアの変異によるものと解明された」と筑波大学が発表しましたが、当然、植物の雄性不稔の原因も、ミトコンドリア内の遺伝子の変異が原因でしょう。
『読売新聞』2006.10.3ミトコンドリアというのは、動植物の細胞内に共生している、元来は別の生物で、動植物にとって大切なエネルギー源である、酸素の供給源です。動植物の先祖である真核細胞は、ミトコンドリアを共生させることによって運動能力を持ったり、新たな進化の道筋を辿ることができましたが、反面、酸素と同様に発生する活性酸素は、細胞や遺伝子を傷つけ、個体が老化したり、ガン細胞に変異したり、遺伝病を子孫に伝える主要原因になりました。
元来別の生物であるミトコンドリアは、細胞の核の中にある遺伝子とは別の遺伝子を独自に持っています。核の中の遺伝子は核膜で守られているため傷つきにくいのですが、ミトコンドリア内の遺伝子は、自分が発生する活性酸素によって傷つきやすいようです。また、動物の精子や植物の花粉は、子宮や胚の中に侵入する時に大変な運動量を必要とするため、卵子と結合した時はミトコンドリアを失ってしまいます。こうして傷つきやすいミトコンドリア内の遺伝子は、母親だけを通じて遺伝されます。(もしかして、男性のミトコンドリア遺伝子は、あまりに傷つき壊れやすいため、卵子や胚によって拒絶されているのかもしれません)
以上の解釈は、学会の定説とはとても言いがたい、素人なりの理解による私説ですが、起っていることはまあこんなことです。そして、これまでのF1作りが、父親と母親の"良い"形質を利用し、雑種強勢でその相乗効果を期待したものであったのに対し、母親株に必要とされる要素は、雄性不稔因子だけになりました。簡単に言いきってしまえば、雄性不稔を利用したF1作りとは、(あえて差別用語を使えば)「片輪を使ってF1を効率的に生産するため」の採種技術なのです。
雄性不稔株を使えば、これまでのような面倒な除雄作業は要りません。自家不和合性を維持するために、人手を雇って蕾受粉をくり返す必要もありません。(もっとも、最近はいちいち蕾受粉などせずに、CO(一酸化炭素)をハウスに充填すると、花が中毒症状を起こして、苦し紛れに子孫を残そうと受精するのを利用しているんだそうですが、この場合は設備などに大変お金がかかります)
ただ、「遺伝子に欠陥を持つ」という、植物にとっては例外的な存在の個体を無理やり殖やして利用するため、当初は計算外の隠れた欠陥までが、出来上がった商品に現れることがあります。例えば、世界最初の雄性不稔F1であるアメリカのトウモロコシは、同一の雄性不稔株を、ほとんどのF1トウモロコシの母親株として使っていたため、特定の病気に弱かった。そのため、その病気が大発生した1977年は、アメリカ全土のトウモロコシが、大凶作になってしまったそうです。
アメリカで、イネ科のトウモロコシから始まった細胞質(ミトコンドリア)雄性不稔利用のF1作りは、その後、F1(ハイブリッド/一代雑種)野菜ブームとなった日本で、次から次へと様々な野菜の育種に利用されるようになりました。雄性不稔技術を使い、ユリ科のタマネギやセリ科のニンジンで、日本初のF1野菜が生まれたのは、すでに40年以上前のことです。そして、その流れは止まることなく、それまで別の技術でF1を作ってきた、ダイコン、キャベツなどのアブラナ科や、ピーマン、トマトなどのナス科野菜にまで、雄性不稔利用が実用化されるようになりました。今や、日本の大手種苗メーカーにとって、市場を支配するほど大量に売れる野菜のタネを生産する方法論として、何ものにも代えがたい利用価値のあるF1生産技術となっているのです。
━━━━━━━━━━以下引用━━━━━━━━━━
野口様
お世話になっております。
【野口】野口種苗の野口 勲です。
いつもありがとうございます。
そして、このたびは貴重なご教示本当にありがとうございました。
種の注文のみならず、HPいつも興味深く拝見させていただいております。
【野口】昨夜は徹夜で明治の「蔬菜改良案内」を途中までアップしておりました。
野菜の種子を工業製品のように扱う種苗業界にあって、野口種苗さんのような存在は貴重だと常々感じております。
【野口】そう言っていただけると本望です。
さて、今回メールさせていただいたのは、10/27更新の雄性不稔についてのお話についていくつか気づいたところがあったからです。
【野口】実は、書き終わっても不安が募るばかりでした。
根本的なところがまったくわかってないことは、自分が一番よく知っていますので。
雄性不稔、特に細胞質雄性不稔は現在のF1育種においては無くてはならない存在となっていますが、おっしゃるようにそのメカニズムは大変に複雑です。
関連の書籍が育種家ではなく、分子生物学の研究者によって執筆されているのも理解を困難にさせる一因のような気もしますが…。
【野口】まさにその通りです。育種家の手による解説をどれほど待ち望んでいるか。
以下の文章は、旱天の慈雨のように心に沁みました。本当にありがとうございました。
そこで、以下に知っておくと理解がいくらか楽になる点を挙げたいと思います。
1 細胞質雄性不稔は母系遺伝をする:
細胞質雄性不稔(以下、CMS)は野口さんのおっしゃるようにミトコンドリアに由来する形質なので、母方の方から子に遺伝します。
【野口】あ。
つまり、基本的にはCMSの母親の子供はすべてCMSになります。
【野口】こんな単純なこともわかりませんでした。
この性質を利用すれば、「戻し交配」を繰り返すことによって今までの既存F1品種のメス親を簡単に雄性不稔化することができます。
「維持系統」というのは、この戻し交配で使用する系統のことを言います。交配を何度か繰り返せばCMSであること以外変わらない二つの系統が出来上がって、一方は採種に、もう一方はその採種用系統の維持のための受粉用に使うからです。
【野口】これが「稔性維持系統(maintainer)」と「稔性回復系統(resorer)」の違いですね?
今ちょっと寝ぼけ眼なので、後で頭を冷やしながら整理して理解します。
【N氏】その通りです。上でいう維持系統とは鵜飼先生のおっしゃる「稔性維持系統」にあたります。(稔性維持とありますが、この系統を交配しても子どもは母親譲りのCMSとなるので不稔です。意味を重視して言えば「CMS系統維持の花粉用系統」とでも呼びたいところです。)
2 果菜類以外では花粉が出る必要はない:
CMSを利用してつくられたF1種子を育てた場合、当然その株も花粉を出しません。しかし、葉菜類等では可食部が栄養部位なので商品としては問題とはならないです。トウモロコシなどの果菜類では花粉稔性回復の必要があるのですがそのような品目はごくわずかです。果菜類の多くが手交配で種子生産しているので交配ミスも少なく、アブラナ科葉菜のようにCMS化による利益が少ないのでしょう。
【野口】なるほど。ピーマンの場合はどういうことになるのか、考えてみます。
【N氏】ピーマンではおそらく稔性回復の因子をF1品種のオス親側に備えさせているのだと思います。…担当の品目でないので、確かなことはお答えできないです。
3 不安定さを含んでいる:
例えばアブラナ科の場合、CMSの因子は大根で発見され、そこからキャベツや白菜に導入されました。
【野口】それが小瀬菜大根なのですか?
【N氏】おっしゃる通りです。
遠縁間で導入されたのが原因であるかはわからないですが、CMSであるはずなのに、高温の年などは花粉が出てしまうことがあります。(元々遺伝的に多様性を保つための仕組みであるので、とにかく子孫を残さないといけないような危機下ではうまく働かないのかもしれません)
このような不安定さに加えて、採種においてはメス親のみから種を採る片親採種となってしまい(これが「片輪」の意味ではないでしょうか?)、種子生産の面でも不安さがつきまといます。
【野口】「CMS=多様性を保つための仕組み」というのが今一つわかりません。
【N氏】これはひとつの説なのですが…CMSは個体レベルでみれば明白な異常です。でも稔性回復させる系統があれば、「種(しゅ)」のレベルでみたときに他家受粉の頻度を高める仕組みでもあると考えられるのです。
実際、ハマダイコンの集団ではCMSの個体と同時に、ちゃんと稔性回復遺伝子をもつ個体も見つかっています。
【野口】なんとなくわかったようなわからないような…。
これも寝ぼけが治ってから、頭を整理します。
【N氏】CMSの親からは当然花粉が出ないので、雑種種子を採りたい場合こちらをメス親にするしかなくなってしまうのです。自家不和合の場合は、両親ともに自家不和合であれば、どちらの系統に実った種子もF1として販売できるのですが。
以上、簡単ですがご理解の助けになればと思い、若輩ものが偉そうに書かせていただきました。
【野口】ありがとうございました。
「1」で、理解につながる道筋が見え始めてきたような気がします。
私自身について書かせていただくと、○○大学の育種研を出て現在はある種苗会社で勤務しております。
【野口】わ。(吃驚)
このような採種の理屈は、私のような者よりも野口さんのような方が知っていた方が断然世のためになると思いますので。(笑)
ひとりの家庭菜園愛好家として、どうか深く理解されることを希望したいと存じます。
【野口】汗顔に堪えません。
実は、あのページを書き終えてから、あまりに支離滅裂なのを反省して、本を読みながら書き直しを図ったのですが、鵜飼保雄「植物育種学」の記号を伴わない引用みたいになって、ますますわけがわからなくなって、結局「つまらない」のでやめてしまいました。
「これなら前のほうが、間違っていてもまだおもしろい」と。
こんなことじゃ本質から外れるばかりです。いけませんね。
それでは、突然の長文のメール失礼いたしました。
寒さが厳しくなりますが、お身体の具合くずされないようお気をつけ下さい。
【野口】重ねてお礼を申し上げます。ありがとうございました。
で、お願いなのですが、N様のメールを、今の雄性不稔のページの末尾に、そのまま引用させていただけないでしょうか?
今すぐ筋道立てて書き直すというのは、まだしばらくの間無理そうなので、
「大学で育種を学ばれ、現在メーカーにお勤めのお客様から、以下のようなメールをいただいた。おかげで、思考(というようなモノじゃありませんが)の回線がねじ曲って、毛糸玉のようになっていた部分が、風通し良く理解できそうな道筋が、やっと見えてきたような気がする。本当に理解できて、新しく書き直すためには、まだ少々頭の整理が必要なので、Nさんのお許しをいただいてメールを引用し、訪問されたみなさんにも、僕が間違っている部分を、考えていただきたい。そして、いっしょに雄性不稔を理解したい」
という文章の後で、そのままご紹介させていただきたいのです。
会社でのお立場がございましょうから、フルネームだけは外したほうがよいように思いますが、それ以外は、いただいた文章のまま(字数を揃えるだけで)引用させていただきたいと思っております。
やがて本当の理解ができた時はしっかり書き直したいと思っていますが、その間、読む人の誤解を少しでも減らすため、ご検討の上、ご了承していただければ幸いに存じます。
以上。取急ぎ御礼とお願いまで。
【N氏】さて引用の件ですが、喜んで使っていただきたいと存じます。
ただし私のような未熟者の理解ですので、多分に間違いが含まれているかも知れません。それでもよろしければ、という前置き付きですが。(笑)
消費者がこのような情報を知る機会が少しでも増えれば良いと強く思っています。
またお役に立てるようなことがあれば、どうか気軽にお声をかけて下さいね。
〒357-0038 埼玉県飯能市仲町8-16 野口のタネ/野口種苗研究所 野口 勲
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