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「野菜の種、いまむかし」

第三回「タマネギの話」

掲載誌『野菜だより』2008/冬号/P94,95
2008.10.16/学習研究社刊 \920.(税込)

 タマネギは、古代エジプトの壁画に残っているほど歴史の古い野菜です。しかし日本で栽培されるようになったのは、明治10年代にアメリカから導入されて以後のことです。
 アメリカから来たのは、「イエロー・グローブ・ダンバース」と「イエロー・ダンバース」の二品種の種でした。F1時代になるまで、日本のタマネギのほとんどが、この二品種から生まれた子孫でした。
 ダンバースとは、アメリカ東海岸のマサチューセッツ州にある町の名で、19世紀当時、オニオンタウンと言われたほどタマネギ栽培が盛んな土地でした(現在は出荷用にタマネギを作っている人は誰もいないそうです)。
 17世紀後半、清教徒のアメリカ移住でイギリスのタマネギがニューイングランドに渡り、栽培されるようになりますが、当初は「コモン・イエロー」つまり「普通の黄色種」だけで、品種とも言えない多様で雑駁な種でした。これを「イエロー・ダンバース」という品種群に育てたのが、ダンバースの農民たちでした。その中で「コモン・イエロー」と丸い白タマネギの「シルバー・スキン」との交雑種の中から地球のように丸く貯蔵性の高い系統を選抜し、「イエロー・グローブ・ダンバース」に固定したのが、ダニエル・バックストンという人で、その種を販売して広めたのが、グレゴリー種苗会社といわれています。
 明治9(1876)年、札幌農学校が開校すると、マサチューセッツ農科大学学長のクラーク博士が教頭として赴任、翌年教え子のウィリアム・ブルックスが、農学教師・農園長として仕事を引き継ぎます。ブルックスは日本にスケート靴を持ってきた人として有名ですが、同時に、寒地の北海道のために、故郷マサチューセッツから「イエロー・グローブ・ダンバース」の種を持って来て、タマネギの春まき栽培を指導します。この種を札幌の農民が代々自家採種して、「札幌黄」という、辛いけれど収穫した秋から翌春まで貯蔵できる品種に育てます。こうして今に続く「タマネギ王国・北海道」が誕生しました。
 マサチューセッツ生まれの「イエロー・ダンバース」は、青果の形で日本に入りました。明治15(1882)年、神戸の料亭でこのタマネギを見た大阪岸和田の坂口平三郎は、アメリカから種を取り寄せ、苦労の末、秋まきして春収穫したタマネギをまた秋に植え、翌年夏に種を採る方法を見い出します。この種を譲り受けた大阪府泉南郡田尻の今井佐治平は、息子に栽培させ、伊太郎・伊三郎の兄弟は、雑駁だった「イエロー・ダンバース」を早生・中生・晩生の三系統に選抜しました。こうして秋まきで春〜初夏どりタマネギの「泉州黄」群が誕生しました。
「泉州早生」は、平たく小型で早どり用の「貝塚早生」を生み、「泉州中生」は大型肉厚で柔らかく多収の「今井早生」に発展し、「泉州晩生」は「泉州中甲高」や「淡路中甲高」、後に貯蔵性もある「大阪丸黄」などに変化していきました。こうして「泉州黄」は、北海道以外の日本全国で栽培されるタマネギの、ほとんどすべての親となったのです。
 ところで、横浜などにも当然タマネギは入っていたはずです。なぜ神戸に入ったタマネギだけが採種に成功し、産地を形成できたのでしょう? 理由は、タマネギの開花期にあります。タマネギの花は、ネギより遅く梅雨の最中に開花するため腐りやすく、梅雨のない北海道や、少雨の瀬戸内海でないと良い種を結ぶことができないのです。そのため、戦後アメリカの「スイート・スパニッシュ」と「泉州黄」の雑種後代を固定させて東北で誕生した「奥州」は、雨を避けてハウスで開花させることで種採りに成功していますし、F1ばかりになってしまった現在でも、最大のF1タマネギ種子の生産会社は、瀬戸内海の香川県にあります。
 F1タマネギを初めて作り出したのは、やはりアメリカでした。
 大正14(1925)年、カリフォルニア農業試験場のジョーンズは、農場の「イタリアン・レッド」という赤タマネギの中に妙な個体を発見します。この花の雄しべの葯は異常で、健康な花粉を生むことができなかったのです。その代わりこの花は、葱坊主の中の小花に、小さなタマネギ型の小球(トップ・オニオン)を付けました。
 ジョーンズは、この小球を栄養繁殖で増やしながら、多種類のタマネギの中で栽培し、「健康なタマネギの花粉なら受精し種を付けるけれど、実った種はすべて花粉が異常で子孫を残せない」ことを確認します。世界初の「雄性不稔」株の発見でした。
 現在では、植物の雄性不稔は、人間の男性原因不妊症(無精子症)と同じで、細胞の中のミトコンドリア遺伝子の異常によって起きることがわかっています。ミトコンドリア遺伝子は、母親からしか子に伝わらないため、雄性不稔株を母親にして生まれた子は、すべてが雄性不稔株になるというわけです。
 当時世界中に広まったメンデルの法則と、雑種強勢(ヘテロシス)という概念で一代雑種(F1)作りを模索していた育種関係者にとって、雄性不稔はすばらしい発見でした。なにしろ、雄性不稔株を人為的に増やして母親として利用すれば、かけあわせをするときに必要な「除雄」という面倒な操作をしなくてもよいからです。増やした雄性不稔株のそばに、健康な別の品種を植えておけば、放っておいても望むF1品種が採種できるのです。
 こうして、本来なら自然淘汰で消えていったはずの、無精子症の個体だけが無限に増やされ、世界中がF1タマネギばかりの世の中になりました。
 今では、「札幌黄」も、「泉州黄」も、健康な遺伝子のタマネギは、八百屋でもスーパーでも、もうどこにも売っていません。それどころか今年は、「大阪丸黄」と「今井早生」の、「売れないから採種を停止した」という連絡さえ届いています。おいしい健康なタマネギを自作する道まで閉ざされようとしているのです。 [2008/9/9記]


追記
掲載誌『野菜だより』のバックナンバーが入手できないという声をいただいたので、ここに再録します。
現在書店で入手できる号は掲載しませんので、お近くの書店にてお求めください。
(2009.3.25)

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