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「野菜の種、いまむかし」

第八回「ハクサイの話」

掲載誌『野菜だより』2009/秋号/P78,79
2009.8.17/学習研究社刊 \920.(税込)

  明治になって中国から日本に渡来した、結球白菜の話です。
  李家文著・篠原捨喜他訳の『中国の白菜』によると、チンゲンサイのような茎が太くて葉数の少ないナッパ(菘)と、茎が細くて葉数の多いナッパ(蕪菁)とが自然交雑して広い葉で葉数の多い大型のナッパが生まれ、たくさんの葉の中央が白や黄色で半結球の花芯白菜になり、その中から結球白菜が誕生したのが清朝初期と言いますから、日本の江戸時代初め頃のことです。
 日本人が初めて結球白菜を目にするのは、明治8(1875)年の東京博覧会に、清国から出品された、三株の「山東白菜」でした。(以後しばらくの間、結球白菜のことを山東白菜と呼んでいます。結球しないものを山東菜=さんとうなorさんとうさい=と呼ぶようになるのはその後のことです)博覧会終了後、三株のうちの二株が愛知県に払い下げられ、種が採り続けられましたが、なかなかうまく結球しなかったようで、20年後の明治27、8年に、たまたま結球した山東白菜が、名古屋から明治天皇に献上されたという記録が残っています。この結球白菜は、「長さ七八寸(21〜24cm)、直径四五寸(12〜15cm)の球状をなし、上端わずかに薄黄色なるも他は皆純白にしてアクの気なくかつ柔らかなること比なし」(『農事雑報』明治32年2月号)ということですから、重さは1kgに満たないでしょう。どうやら今のF1ミニ白菜程度の大きさだったようです。

 愛知に根をおろした山東白菜は、その後野崎徳四郎によって改良され、大正10(1921)年「愛知白菜」と命名され、やがて重さ2.5kgぐらいの「野崎白菜」という、播種後55〜60日で結球する早生系ハクサイの誕生につながります。
 日清日露の戦争後、中国大陸に渡った兵士によって結球白菜は日本中に知れ渡り、需要が高まりました。そして山東省のハクサイの中でも、「芝罘(チーフー)」とか「包頭連=ほうとうれん=」といった、より大型のハクサイの種が輸入され、日本中で広く栽培されるようになります。
 中国からの輸入種子が非常に高価だったため、日本国内でもハクサイ種子の採種が試みられましたが、日本にはいたるところに在来ナッパが花を咲かせていたため、交雑でまともなハクサイの種を採ることが困難でした。
 そんな中で、芝罘ハクサイを宮城県松島の離島で隔離栽培することで交雑を防ぎ、結球するハクサイの種を採ることに成功したのが渡辺頴二=えいじ=でした。こうして今に続く芝罘系ハクサイ、播種後60日で結球する「松島純二号」が、大正14(1925)年に誕生し、宮城県は戦前を通じて全国一のハクサイ王国になります。(現在最も栽培されている固定種ハクサイである75日型中生=なかて=の「松島新二号」の誕生は、昭和15(1940)年)
 中生の芝罘と、より大型で晩生系の包頭連との交雑後代から、晩生種の「加賀白菜(金沢大玉白菜)」を生み出したのは石川県の松下仁右衛門でした。こうして、日本のハクサイに、早生の愛知、中生の松島、晩生=おくて=の加賀という、作型の異なる3タイプのハクサイが揃いました。(加賀白菜は、その後大手種苗会社によって「京都三号」と名を変えられ、全国の晩生ハクサイの代表品種となります。他社が育成した品種を仕入れて品種名を変え、自社が育成したように偽って販売するのは今も続く種苗業界の悪慣習で、業界用語で「店頭育種」と言います)

 柔らかく味の良いハクサイから耐病性の強い(従ってあまりおいしくない)ハクサイへと育種の方向が変わるのは、戦後のことです。化学肥料と、大規模単作農業がもたらす連作障害が、その必要性を加速させました。東京世田谷の下山義雄は、芝罘ハクサイの中から、選抜淘汰でモザイク病に強いウイルス抵抗性の「下山千歳白菜」を育成し(昭和27年農林省登録)、農林省園芸試験場は昭和31年、キャベツとハクサイから育成した合成セイヨウアブラナのナンプ病抵抗性を松島新二号に取り込んだ「平塚一号」を生み出しました。これらの耐病性固定種は、現在では販売されていませんが、根こぶ病抵抗性素材であるヨーロッパの家畜用カブなどとともに、耐病性F1ハクサイを作るための貴重な遺伝資源として、種苗会社の試験農場で保存、利用されています。

 F1ハクサイの登場は、自家不和合性利用による「長岡交配一号白菜」(昭和25年発売)から始まります。以後何百というF1ハクサイが発表されてきましたが、それまでのハクサイの形状を大きく変えたのが、昭和36(1961)年に販売開始された、中央部の葉が白くなく黄色の、黄芯=おうしん=ハクサイ「新理想」でした。
 ハクサイの先祖である花芯白菜の時代から、ハクサイの芯には黄色く発色するものがありました。しかし「白菜」の名にふさわしい「白い芯」にこだわってきたのが、日本のハクサイの歴史でした。きっと育成者の鈴木武政は、「うまければ黄色くたっていいじゃないか」と開き直って、F1の片親に黄色の固体を選んだのでしょう。新理想は、味の良さが認められて大産地茨城の一部に定着しました。しかし、「白いからハクサイだ」と思い込んでいる全国には、なかなか広まりませんでした。 突然ブレイクしたのは、発表から二十年以上たった1980年代になってからのことです。昔は農家がハクサイを出荷する時は、箱詰めでなく、2株ずつ丸ごと赤い紙で束ねて市場に出していました。仕入れた八百屋も、二個単位で売っていました。家庭でたくさんの白菜漬けを漬けていた時代の名残りです。ところがその年、ハクサイが不作で高値となり、半分に切って売られるようになりました。すると中の黄色い新理想が目を引き、口コミで広がって、「黄色いハクサイはおいしい」という評判が一挙に広まったのです。
 これに四分の一カットをポリ袋に入れて売る漬物屋さんが飛びつきました。「大福」という黄芯ハクサイは、1985年に完成したF1品種ですが、当初は「あまり売れないだろう」と期待されず、種を眠らせていたようです。新理想の種が品薄なのを見て市場に投入されたのは1987年ですが、これが飛ぶように売れ、黄芯ハクサイブームに火が点きました。2000年代に入ると、F1ハクサイの新品種は、黄芯ハクサイ以外発表されなくなってしまいました。「ハクサイは白いから白菜なんだ」と言っていた種苗会社も、こぞって黄色いハクサイを育成しはじめていたのです。
 おかげで、どんなにおいしくても、中の白いF1ハクサイの種は、つぎつぎ廃盤となり、入手できなくなっていきました。茨城などの大産地では漬物屋さん等の業務用大量需要に支えられた黄芯ハクサイしか作らなくなり、自家用品種は量がさばけないため、見捨てられていったのです。固定種なら、自家採種で生命をつなげていくことができますが、「F1は、種苗会社が採種を止めた瞬間に、固定種である両親もろともこの世から消えてしまう存在だ」ということを身をもって味わった品種交代でした。
 少子化の現在、デパ地下やスーパーで核家族向けに売れているのが、小さなミニ野菜です。黄芯で、一個300〜500gという手のひらに乗るようなミニハクサイを「手ごろでかわいい」と買って行く主婦を見ていると、ハクサイが日本に入ってきてからの歴史とはいったいなんだったのか、考えこんでしまいます。


『野菜だより』連載「野菜の種、いまむかし」次号(10月16日発行冬号)は、「キャベツの話」です。[2009.11.15]

追記
掲載誌『野菜だより』のバックナンバーが入手できないという声をいただいたので、ここに再録します。
現在も書店で入手できる号は掲載しませんので、お近くの書店でお買い求めください。
(2009.3.25)

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