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何代にも渡って受け継がれてきた種

−固定種についての講演要旨−

昨年末、埼玉県の農業高校の先生方に「固定種について」お話する機会をいただきました。
何の下準備もなく、日頃思っていることをただベラベラとしゃべってきただけなのですが、今年になって、事務局の埼玉県農業教育センターの方から「テープ起こしができたので、間違いをチェックして欲しい」と文字になったモノを持ってきていただいてしまい、一読「ぎやあ」と、頭を抱えてしまいました。(笑)
話はあっちへ跳びこっちへ戻り、同じことを何度も言ったかと思うと、突然意味なく脱線したり…と、まったく支離滅裂ではありませんか。
「一週間程度で」とのご希望も耳に入らず、結局一か月以上お預かりして、まったく新しく改稿せざるを得ませんでした。
最初の講演原稿の用途が何かわかりませんでしたが、せっかく書き直したので、ここに載せることにします。うまく論旨が繋がっているといいのですが。(2004.3.31)


はじめに(自己紹介を兼ねて)

 種屋については皆さんもいろいろなところをご存じかと思いますが、私の家は、たぶん日本で一番小さな種屋です。飯能市は、農業地帯ではなく、周囲のほとんどが杉や檜が植林された山という中山間地、江戸時代から続く林業地帯です。家の周囲に一反(300坪)畑があると大地主という土地柄で、田んぼもほとんどありませんから、農業経営は成り立ちません。専業農家が存在しないので、高価な「交配種=F1」を大量に買ってくれるお客さんも存在しません。もともと蚕の種屋をしていた本家から次男坊の祖父が分家して、蚕の種の市街地販売所兼自給用野菜の種屋として創業した店ですから、販売する種子も自給用ばかりで、取扱い種子の総量も微々たるものです。
 自給用野菜の種子として、昔から「固定種」という在来種を中心に扱ってきました。ホウレンソウとか菜っ葉は、現在主流となっている「F1」に比べて味が良く、また生育が均一でないので、大きく育ったものから間引きながら長期間にわたって収穫できるので、現在種子業界の主流である「F1」より、自給用には向いています。
 地元で売れる種子の量が少ないので、全国の種屋に販売しようと、固定種野菜種子の種採りも父の代から50年以上続けてきました。「全国原種審査会」で農林大臣賞を連続受賞していた「みやま小かぶ」を中心に、地元野菜の「のらぼう菜」や、埼玉特産の小松菜、地這胡瓜の種などは、今でも細々ですが採種しています。昔は長人参、長牛蒡、結球白菜からキャベツまで十数品目の採種をしていました。昭和30年代までは、固定種の需要も多く、日本全国に広く販売していましたが、40年代からF1の時代になり、生育速度や均一性や周年性で劣る固定種は、出荷用野菜の種としてはまったく売れなくなってしまいました。
 私は、高校生の時「もう固定種の種屋はダメだな」と考え、もともと漫画が好きだったので、漫画雑誌の編集者になりたいと思っていました。手塚治虫のファンでしたから、手塚治虫のそばで仕事をしたいと考え、大学は国文科に行きました。大学2年の時に虫プロの社員募集を見て受験したところ、合格したので大学を中退して虫プロに入りました。虫プロ出版部で念願の手塚治虫社長担当の編集者として、社内で発行する雑誌に「鉄腕アトム」や「火の鳥」(現在広く売られている版の初代担当編集者です)の漫画原稿をいただいていたのですが、一緒に徹夜しながらそば近くで接した手塚治虫の終生のテーマが、「生命の尊厳と地球環境の持続」であることを知り、感銘を受けました。
 虫プロが倒産し、家業を継ぐことになった時、F1という一代限りの野菜種子の普及でなく、種を採りついで生命が持続しながら変化し発展していく固定種野菜の復活に挑戦してみたいと思ったのは、ですから自然ななりゆきでした。こうして、生前の手塚先生に許可していただいた「火の鳥」の看板を掲げ、日本各地や世界の固定種野菜の種子を収集し、インターネットを通じて全国に販売するという現在の取り組みを開始しました。

1.固定種とは

 固定種というのは、「固定された形質が親から子へ受け継がれる種」のことで、種苗業界の用語です。種苗業界では、複数の親から異なる形質を受け継いで、第一代目の子だけがその中で優性の均一形質を現す「交配種=F1」に対して使われ、親が単一であるために、単に「単種」と言われることもあります。
 F1誕生以前の植物種子は、すべて固定種として育成されてきました。そのため、すべての在来種の種子は固定種であると言ってもいいわけですが、たとえ伝統野菜とか地方野菜と言われる分野の野菜でも、形質が一定していない(固定されていない)野菜は、単なる「雑種」で、固定種と呼ばれることはなく、プロの種屋の販売対象ではありませんでした。種屋にとって、F1が生まれる以前は、本物の固定種だけが販売価値がある種子だったのです。
 先日、長崎の岩崎さんという方の畑で、「女山三月大根」という赤大根の畑を見せていただいたのですが、葉の色が赤いのあり緑のあり中間いろいろありと見事にバラバラで驚きました。「これは全然固定されてませんよねえ」と言ったのですが、「最初に地元の種屋から買った時はもっとひどかったんですよ」ということでした。たぶん中国の赤大根と日本の地大根との自然交雑で生まれた雑種で、地元の農家さんから買い上げて、そのまま販売しているのでしょうが、赤い葉が本当の姿なのか緑のがそうなのかわからない。これでは品種名を付けて種屋が販売するのにはまだ無理があるな。と、思ったことでした。
 新たに品種名を付けるだけ独自で固定された形質を売り物にするには、優良な母本を維持するための原種選抜と、逸脱した株を種採りから排除する淘汰が毎年欠かせません。うちの「みやま小かぶ」は、「これでも小カブですか」と種苗会社の人が驚くほど大きく育っても玉が割れず、オーストラリアで蒔いた現地の人が「こんな美しく美味しいカブに初めて出会った」と言ったと伝えられるほど完璧な形状と味で、固定種時代の日本の小カブの完成品と自負していますが、最初の原種を手に入れてから3年間母本選抜してひとまず固定してから品種名を日本種苗協会に登録し、以後50年にわたって選抜淘汰の作業を続けてきました。ただ、長期にわたって形質を固定し過ぎたため、最近10数年はすっかりホモ化して生命力が衰え、採種量が激減してしまいました。これではいけないと、3年前あえて目をつぶって1年だけ選抜を休み、蒔いた種すべてから種を採ってみたのですが、その年から驚くほど採種量が増加して、品種の生命力が復活しました。反面、影に隠れていた劣性因子も発現したようで、1〜2割ほど形状の良くないカブも出るようになったので、現在再び100%「みやま小かぶ」となるよう追い込んでいる途中です。どんなに容赦なく追い込まれ衰えたように見えていても、固定種が内在する遺伝子の多様性と、残された命を爆発し漲らせようとする種の力の逞しさ素晴らしさに、ほとほと感心している昨今です。

2.地方野菜と伝統野菜(付/変化する料理法)

「地方野菜」とは地方でしか流通していない野菜、「伝統野菜」は地方野菜の中で他地域にも著名で特産と言えるような野菜を指して言っている言葉のようですが、どちらも青果での流通時に使われる言葉のようです。
 うちに取材に来られる記者の方から、最初に聞かれるのがこれらの言葉の定義で、聞かれたこちらも困ってしまいます。「京野菜」と言えるのは江戸時代以前からの歴史ある野菜ばかりで、「愛知の伝統野菜」には昭和に入ってからできたファースト・トマトも入っているんだそうです。要は各県の公的機関が認め、県産品としてお墨付を与えたものがその地の「伝統野菜」ということのようです。
 固定種の地方野菜や伝統野菜は、大量生産や周年栽培に向かない代わり、適期に播種して適期に収穫する旬の味と、何よりもその個性的な姿形が、画一化したF1野菜に飽き足りない人たちを魅了します。伝統野菜を地域の特産品として売出そうとしている人たちの中には、「他所の土地ではできない」とか「味が落ちる」とか言う人もいるようですが、確かに風土と密着した元の味は出せないかもしれないけれど、適期に蒔けば日本のどこでも作れるものばかりです。元々日本にあった野菜は「ワサビ」くらいで、それ以外は世界中から入って来て日本の気候風土に馴染んだ伝来種ばかりです。遺伝子が本来持つ多様性や環境適応性が発揮されて、3年も自家採種を続ければ、新しい土地の野菜に育ってくれます。
 多くの大根や菜っ葉や白瓜などのように、昔は漬物などに加工して保存食とした野菜が多いので、家庭で漬物を作る習慣が廃れた現在、料理法が限定されるかな。と、かつては思っていたのですが、世界中の料理が食べられるようになった現在、逆に無限の可能性が広がっている。と、感じています。
 例えば「埼玉青大丸ナス」という巾着型で緑色のナスは、皮が硬いので漬物には不向き。味噌汁の実に使って汁が黒く濁らないくらいしか取り柄がないかと思っていたのですが、銀座のフランス料理店のフランス人のコックさんは「これほどフランス料理にあうナスはない」と、ほめちぎってくれたそうです。うちで売っているフランス種子の黒大根も「ラディッシュにしてはサラダに使うには硬いけれど、フランスではどうして料理しているのかな?」と、思っていたのですが、なんと黒い表皮を付けたまま「焼いて食べる」んだそうです。
 販売用野菜種子のほとんどをF1にしてしまったのは日本ぐらいで、フランス種子のカタログを見ると、7〜8割が現在も固定種です。外国野菜の種子なども取り入れて、新しい日本の野菜を創造するのもおもしろいと思います。

3.気候風土の違いで変化する固定種

 インド原産のナスが、東南アジアから中国を通じて日本に入ってきたのは、今から千数百年前のことと言われています。元々熱帯の気候に適していたナスですが、南北に長い日本列島では、各地の気候に合わせて様々な品種が生まれました。一例をあげると、長ナスは九州と東北にありますが、豊臣秀吉の朝鮮出兵で日本中の大名が博多に集められた時、九州の長ナスを仙台藩の侍が国へ持ち帰って生まれたのが東北の長ナスだそうです。
 九州にいた時は、暑さの中で大きく茂り、葉数が10数節ぐらいまで育たないと花を付けない晩生系のナスだったのですが、東北の冷涼な気候に適応して、もっと小さいうちから花を咲かせ実を付けるように変化しました。遅いと寒さで子孫を残せないためです。味も、焼きナスなど加熱利用が多い九州と違って、東北は漬物文化ですから、漬物に適した柔らかいものが好まれて、選抜を続けた結果生まれたのが「仙台長ナス」です。風土と食生活の違いが、固定種の遺伝子を刺激して変化させたわけです。
 日本では紫黒色のナスが好まれ、ヘタも同じ色ですが、外国にあるのは米ナスのようにヘタは緑色なのが普通です。緑色のヘタの日本在来種は、さっき言った「埼玉青大丸ナス」とか、九州の「白ナス」のように実もナスニンという色素を持たない系統ばかりのようです。「埼玉青大丸ナス」がどういう経路で埼玉に定着したか、実はよくわかりません。明治初年に中国から導入され、奈良漬用に栽培されていたらしいと書いてある本もありますが、決まった産地もなく、自給用に細々と栽培されているだけです。九州の白ナスは、薩摩藩の時代から栽培され、やはり自給用に現在も作られているそうです。種子は、埼玉の青ナスのほうは種苗メーカーが採種を手がけ、比較的入手しやすいのですが、九州の白ナスのほうは、農家の自家採種を分けてもらうしかないそうで、うちでも入手に苦労しました。

4.気候風土と自然交雑で変化する固定種

 日本には、約200種類のダイコンの品種があったそうです。どうみても同じ系統なのに、地方に行くと別の名前になっていることもよくありますから、100種類強ぐらいかも知れません。
 ダイコンには、首が上に出るダイコンと、下に深く潜るダイコンがあります。耕土が深くて寒いところでは下に潜る系統が適し、耕土が浅く暖かい土地だと上に伸びる系統が適します。上に出たところが太陽に当たって青くなり、糖分が増して甘くなるのが愛知の「青首宮重大根」の系統で、現在のF1青首大根の重要な片親です。言い伝えによると、尾張藩が献上した「宮重大根」の種子を、将軍綱吉が下練馬村で蒔かせたのが、「練馬大根」の始まりと言われています。当然異論もありますが、この伝説を信じると、首が出るダイコンだった「宮重大根」が、関東ローム層の深い耕土で育った土中に潜る系統のダイコンと自然交雑して、根が深く長い「練馬大根」に変化していったということでしょう。
 気候の変化と地野菜との自然交雑で形が変化した野菜で有名なものに、「野沢菜」があります。元は関西の「天王寺かぶ」ですが、やはり江戸時代に京都に修行に来ていた信州野沢村のお坊さんが、「天王寺かぶ」の種子を持ち帰ったのが始まりと言われています。
 今では似ても似つかない両者ですが、かたや「大阪の伝統野菜」の代表格であり、かたや「長野で最も有名な伝統野菜」であることは、皆様ご存知の通りです。昨年うちに来られた徳島のお客様が「野沢菜の一番大きな産地を知ってますか?実は徳島なんです。長野の漬物業者から種が来て、近くで一年中作って送っています」というのは余計な話ですが。

5.種屋の誕生

 世界中から日本に伝来した野菜は各地に広がり、風土に適応していろんな地方野菜、伝統野菜に変化していきます。これが自然の摂理で、それは、鎖国状態の江戸時代に一気に花開きました。諸大名は参勤交代するときに、その地方の特産野菜を持ってきます。大名屋敷はものすごく広いので、そこで国元の野菜を作ったり、将軍家に献上したりして、各地の「名物野菜」の評判も形成されました。当然、江戸勤番の侍に国元の野菜の種を渡されて、栽培を請け負う農民もいたでしょう。
 江戸時代は、日本の人口のほとんどが農民です。武士はほんのひとにぎりに過ぎません。しかし江戸の町ができあがって、世界で一番大きな町になり、参勤交代や禄を離れた浪人など日本中の侍が集まってきたために、その人たちの需要を満たす商人や職人とともに、自給自足でなく、他人に販売するための食べ物をつくる専門の農家も生まれました。脚気が「江戸患い」と言われたくらい野菜が貴重な江戸ですから、相当よい値で売れたのでしょう。江戸近郊の農村で畑を耕して、武士や町人のための販売を目的とした野菜を作るようになります。各地の様々な地方野菜は、やがて関東の風土に適応して、関東に向いた野菜に変わっていくことになります。肥料は、江戸の町家や長屋から出る大小便です。こうして今に名高い江戸の循環型社会が完成するわけです。
 販売用野菜を作っていると、元来、百姓は一番よくできた農産物を一番高く売りたいわけです。しかし、農家の中には、一番良くできたものを次の種にするんだということで、次善のものを売って、本当にいいものは自分で種を採って、その種を選抜淘汰して育成していく人たちが生まれてきました。近所の人がその種を分けてもらい、評判を聞いた遠くからも種を求める人が訪ねるようになります。それらの人たちが、今の種屋のもとになっています。
 江戸中期以後、種屋の集落が今の北区の滝野川というところに生まれました。現在の「みかど育種」の越部家とか、「東京種苗」の榎本家とか、「日本農林社」の鈴木家とかいう人たちのご先祖にあたります。「滝野川人参」とか「滝野川牛蒡」などを育てるとともに、日本中の種を集めて改良し、また日本中に売る仕事をするようになります。
 明治維新で鎖国が解かれ、外国との貿易が盛んになると、横浜に、外国の種苗を輸入して国内に売ったり、日本の種苗を外国に販売したりする種苗会社が誕生します。「横浜植木」とか「サカタのタネ」といった会社です。国内の種の流通が活発になると、各地の特産野菜の改良育種に励むとともに、全国に販売網を広める種苗会社も各地に生まれます。京都の「タキイ種苗」とか、群馬の「カネコ種苗」、宮城の「渡辺採種場」のような会社です。

6.固定種の現在

 これら大手種苗会社が育成し販売していた種は、前述の通り昭和30年代まではほとんど固定種でした。固定種の育種の根本は、良い親を入手することと、できた個体を見分け、選抜淘汰をくり返して品種として形質を固定することです。品種を限定すれば、地方の小さな種苗店や専門農家でも充分たちうちできる作業です。専門農家が育成した品種の中には、種苗会社が販売権を買い取ったものがあったり、当店の「みやま小かぶ」のように、大卸と言う名の大量販売先である大手種苗会社に売られ、種苗会社が自分の所の品種名に変えた袋に詰めて、全国の種苗店に卸すというようなことも日常的に行われていました。こうした専業化した中小の採種元は各地にあり、全国の農業試験場で行われる「原種審査会」で、大手の出品する品種を凌駕する成績を上げ、品種本来の持つ力を全国に知らしめていました。
「日本種苗協会主催全日本原種審査会」の名は今も残っていますが、既に実体は大手メーカーの「試交品試作検討会」の場と化しており、本来の「野菜の原種」の形を採種元ごとに比較して見ることができる場は、もう日本中のどこにもなくなりました。各地に残る在来種の中から、本当に固定された良い品種を集めたいという私の夢にとって、このことは最大のネックとなっており、残念なことです。
 最近、「伝統野菜ブーム」とかで、各県ごとに伝統野菜を指定するなど、固定種がマスコミ等に取り上げられる機会が増えてきました。
 中国など外国からの日本向け野菜が増えた結果、(当然これらの種子は、日本から輸出されたF1種です)野菜全般の市場価格が低くなり、国内産野菜の差別化を図るため、固有の歴史と特徴ある外観を持つ固定種の地方野菜が見直されるという構図です。現在、これらの流通は「道の駅」や有機野菜宅配会社などに委ねられることが多く、市場を通すことは少ないのですが、中卸などの市場関係者から問合せの電話や固定種の種子の注文が入ることも増えつつありますので、この流れは少しずつ拡大していくと思います。

7.自家採種について

 今日、いちばん皆さんに言いたいことは、「固定種の野菜を栽培して、どうか自分で種を採っていただきたい。」ということです。
 固定種の良い点は、自家採種できるという一点です。さっきもお話しましたように、自家採種を三年も続けていれば、その土地に合った野菜に変わっていきます。また自家採種は、有機栽培農家にとって、基準通りの「有機認証」を取得するための唯一の方法でもあります。有機認証基準では、「種子も有機栽培で育てられたものを使うこと」と決められていますが、日本の種苗会社が販売している種子で、この規格に合致するものは何一つありません。有機栽培農家が自家採種する以外、国内でこの基準に準拠した種子を入手する方法は無いのです。
 また本人の能力次第では、F1から自家採種して固定種を生み出すこともできます。
 10年ほど前、「桃太郎」というF1トマトの種を採ろうと決心した岐阜高山のコックさんがいました。「桃太郎」は5品種のトマトを交配させた複雑なF1ですが、このコックさんは自分で美味しいトマトを作ろうと思い、「桃太郎」の種を採って、自分の舌で感じた美味しい物だけを選んで蒔いて、8年かけてほぼ固定したと言えるトマトを作ったということでした。このトマトを岐阜県知事がお中元に使ってるのだそうです。「桃太郎」の血が流れているから皮は硬いのですが、もらって食べたところ「桃太郎」よりも甘くて美味しいトマトでした。うちではこのトマトの種を分けていただき、元コックさんの社長さんが名付けた「アロイトマト」という名で三年前から種子を販売し人気品種になっています。
 こういう特殊な例もありますが、一般論としてはF1からの自家採種はお勧めできません。F1技術が進化した結果、「桃太郎」のように5品種や6品種の交配が普通になり、分離して固定するまでに膨大な年月が必要なのと、雄性不稔という種が採れない親を使う技術が一般化した結果、望む形質の種子を得ることが不可能な場合もあり、良いものを選ぶ目や舌を持った人が何年かかっても、徒労に終わることが往々にしてあり得るからです。
 最初に言ったように、「固定種」とは形質が固定され、自家採種した種を蒔くと、親と同じ子が生まれる「品種」のことです。私は、まだ地方の固定種が細々とでも残っているうちに、各地のいろいろな固定種の種を日本中にばらまきたい。そして種の持つ多様性の花を開かせ、地域地域にあった「新品種」に変化させたい。入手した人の中から、江戸時代の種屋のような、野菜の進化の手助けをしてやれる人が少しでも増えて、未来の野菜が生命力に満ちあふれ、それを食べた人々がより健康になって、「火の鳥」のようにあらゆる生命が光り輝く地球となるよう願ってやみません。


[MEMO]
この原稿の元になった講演は、2003年12月2日、埼玉県江南町の農業教育センターで行われました。
貴重な経験の場を与えていただいた皆様に感謝申し上げます。


〒357-0038 埼玉県飯能市仲町8-16 野口のタネ/野口種苗研究所 野口 勲
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