野口種苗ロゴ
『タネが危ない』の増補改訂版用に「タネ屋に生まれて」の書き直しを試みたが、途中で自己満足のチラシ裏と気付いた。
ただ、せっかく書き始めた文なので、本に載せることは諦めて、この場に備忘録として、書き続けてみる。

 祖父・野口門次郎が、埼玉県入間郡飯能町一丁目二〇四番地の店舗併用住宅を借りて、野口種苗園という小さなタネ屋を開業したのは、一九二九(昭和四)年のことだ。大家との契約書の日付が一月一日になっているから、新年を目指して開店したのだろう。
 実家の長男は、小瀬戸という山間の集落で蚕種(カイコの卵)の生産販売業兼養蚕学校を経営しながら、飯能町の町会議員もしていた。次男だった祖父は、二八才で曽祖母の実家である八王子の刀鍛冶の娘と結婚して分家し、実家の持つ畑に家を建ててもらい、最初は近隣の人たち相手の雑貨屋をしていた。しかし世界恐慌という時代に遭遇し、不景気で商品の駄菓子や雑貨がまったく売れなくなったため、兄・歌蔵の援助を得て、飯能駅近くの商店街に、蚕のタネ(卵)の販売所を兼ねた野菜のタネの小売店を開いた。日本各地で「たねや」という屋号を持つ家は、明治以後の蚕のタネ屋が多いと聞くが、絹織物が日本の主要産業だった時代には、蚕の卵が農村経済の基幹資材だったのだろう。
野口種苗園では、蚕の卵は本家が生産したものを販売したが、野菜のタネは、東京の日本農林社という種苗会社から仕入れた。北区滝野川は、日本のタネ屋の発祥地で、江戸時代から続くタネ屋が数社あった。祖父は年に数回、武蔵野鉄道(現西武池袋線)に乗って池袋に行き、滝野川バス停で降り、日本農林社から様々なタネを仕入れて風呂敷に包み、背中に背負って帰ってきて、小分けして店に並べたという。当時はF1などない時代だから、F1と区別するために生まれた固定種という言葉さえなく、どれもただ単に「野菜のタネ」だった。日本各地で生まれた在来種のタネを、それぞれの産地が採種した「本場のタネ」と言って、売っていた。各地それぞれのオリジナル品種であることを意味する「本場」という言葉が、優良品種の証だったから、野菜のタネの品種名も、そのタネを蒔いて収穫した野菜の名称も、本場の地名で流通していた時代だった。ゴボウやニンジンは「滝野川牛蒡」や「滝野川人参」であり、「練馬大根」は、練馬のタネ屋が練馬で生産したタネで、聖護院大根は、京都のタネ屋から、佐土原茄子は九州から、大浦牛蒡は成田から、大卸会社である日本農林社が、日本各地の生産地のタネ屋から取り寄せたタネを、東京や埼玉の小売店に卸していた時代だった。
祖父はタネの小売店を経営していたが、飯能の高等小学校を出た父・庄治は、本家に住み込んで養蚕技術を学び、東京の養蚕学校に進んで、埼玉県入間郡の養蚕技師になった。一九三七年、二三才の時、徴兵制度により召集されて上海など中国を転戦した父は、除隊後また養蚕技師に戻り、二八才で久須美という集落の大工の娘である母と見合い結婚したが、日中戦争から第二次大戦へと拡大した戦火は、絹織物などという贅沢産業の存在を許さず、養蚕農家も多くが兵役に取られたため、青梅の親戚が経営する軍需工場の労務主任という職を得て、青梅のまちなかに部屋を借りて、所帯を持った。
 一九四四(昭和一九)年七月、僕が誕生したときに父が書いた命名の記録を見ると、「一六日朝五時前頃から、芳江が産気づいたが、なかなか産婆が来ない」など気を揉んだ状況に続き、「九七〇匁の長男誕生。勲と名付ける。勲よ、父は近く二度目の出征をして戦地に赴くだろう。生きて帰れないことは覚悟している。勲よ、父のいさをし(勲功)を後世に告げよ」とあった。同世代に多い勲という名前は、多くがこのような父親の悲痛で、しかし能天気な希望を託されて、生まれているのだろう。
 こうして僕は、戦時下に東京郊外の青梅市で生まれた。ただ、生後数カ月の時、再召集された父に連れられて、祖父母が住む飯能のタネ屋に戻って以後そこで育ったため、青梅での記憶は何もない。再召集された父も、東京の近衛師団に所属している間に終戦を迎え、戦後は、脳卒中で寝たきりになった祖父に代わって、タネ屋の二代目を継ぐことになった。
 父が店を継いだ戦後の時期は、日本中が食糧難で飢えに苦しんでいた。誰でも庭を耕して、カボチャをはじめとする野菜を作っていたため、朝店を開けると、開店前からタネを求める人たちが並んでいたそうだ。
 戦後しばらくはタネが配給制で、タネ屋の組合に入っていたから、商品は組合を通じて回ってきたが、粗悪なタネが多くて困ったそうだ。日本中のタネが配給本部に集められ、全国に分配されていた。最初は新しいタネでも、配給元の大手種苗会社が良いタネを取って、倉庫に残っていた古いタネを混ぜて、都道府県に分配する。地方の役員はまた良いタネを取って、古いタネを混ぜて配布する。そんなわけで、うちのような埼玉県入間郡の末端のタネ屋に来たときには、芽が出ないような古いタネが相当混じっていたという。
 生えないタネを売ってはお客さんに申し訳ないと、父は苦心の末「発芽試験器」を考案した。回ってきたタネが、芽が出るかどうか、生きているタネか死んでしまったタネかどうかだけでも売る前に確認しないと、自信を持って商売できないと思ったのだ。
 当時も現在も、農林水産省の基準では、発芽試験は、シャーレと濾紙で行うことになっているが、使い捨ての濾紙に代えて、土と条件が近い素焼きで播き床を作った。播き床には裏表に播き溝を掘り、溝に沿ってタネを並べるだけで、細かいタネなら表に百粒、大き目のタネなら裏に五〇粒並べられる。土を焼いた素焼きは、上薬がかかっていないから水に浸けると吸水する。溝に沿ってタネを並べるだけで水分が保持されて発芽するので簡単だし、芽が出なかったタネまたは芽が出たタネを数えるだけで、発芽率がすぐ表示できる。落として割らない限り半永久的に使えるその素焼きの播き床を、まだプラスチックがない時代なので、セルロイドの容器に入れた。父は、それを自分と同じように粗悪なタネで困っている日本中のタネ屋に使ってもらいたいと考え、大手の種苗会社に販売を依頼した。大手種苗会社のセールスマンは、地方の小売店を回っているから、タネの予約注文や集金のついでに勧めてもらおうと思ったわけだ。実用新案を取り、NHKの発明コンクールで入賞した発芽試験器だったが、「野口種苗園」という当時の名前では「箔がないから取り扱えない」と言われ、やむなく「野口種苗研究所」という店名に変えた。だからうちは「研究所」などという怪しげな商号をつけているが、実体は埼玉の地方都市の小さな普通のタネ屋だ。
 のちに僕が日本中の固定種・在来種を集めて、それだけを販売する「固定種専門店」にしたいと考えて、まだ取引がなかった九州の種苗会社に「初めまして、埼玉の野口種苗研究所と申しますが、九州の固定種を扱わせていただきたいのですが、仕入れさせていただけないでしょうか」と電話した時、社長さん直々に「初めましてじゃないですよ。オタクの発芽試験器、いまでもうちで使ってるよ」と言われ、半世紀以上現役で使っているタネ屋がうち以外にもあるんだと、改めて驚き、父にも感謝したのだった。
 敗戦後の混乱期が過ぎて配給制が廃止され、タネを自由に販売できるようになった時、「良いタネを売るには、自分でタネを採る必要がある」と気づいた父は、仕入れるだけのタネ屋から、採種活動も始めようと思った。しかし、養蚕に関してはプロだったが、野菜の採種に関しては素人同然だし、全くゼロの状態から一人でできるはずもない。そこで、埼玉県入間郡のタネ屋仲間のうち、近くて共同事業がしやすく、しかも商圏が重ならない、同世代の二軒のタネ屋に「いっしょにやらないか」声をかけた。川越の斎藤農園と、所沢の古谷種苗店(のちに古谷採種園)である。配給の粗悪なタネに困っていた同類であるから、二人も賛同し、三人共同で野菜のタネを採種する「みやま採種組合」を立ち上げた。「みやま」という名前は、「三人のヤマ(採種地)」という意味と、飯能という採種に適した「奥深い山」の畑の採種場という二つの意味をかけている。
 飯能は、市域の八割が山地という林業地帯で、平地が少ないから田んぼもほとんどない。農業では生活が成り立たないから、お客の多くは林業に携わり、山間の集落に住んで、家の周りのわずかな畑で、自家用野菜を作って暮らしている。こういう周囲と隔絶した山間集落は、交雑を防いでタネ採りするのに最適地なので、明治以後、日本中のタネ屋が、林業が盛んな中山間地で採種活動を行なっていた。林業農家に原種を渡し、採種を委託して、白菜やカブ、ダイコンなど、伝統野菜の中心であるアブラナ科野菜のタネを採ってもらっていたのだ。アブラナ科野菜は、他家受粉植物の代表格で、近くに別品種の菜の花が咲いていると、虫がその花粉を運ぶため、すぐ交雑して、間の子のオバケのタネになってしまう。タネ屋と契約した採種農家は、集落内では別の菜の花が咲かないよう、お互いに監視しあって委託された野菜のタネを育て、収穫したタネをタネ屋に買い取ってもらう。タネ採りを委託するこうした集落を作場(さくば)と言い、作場からタネを買い上げることを山揚げと言った。
 飯能という作場に顔が利く野口種苗に対し、埼玉県内では大手のトキタ種苗の農場に勤務してから独立した川越の斎藤さんは、作物の良し悪しを見抜く目を持ち、採種技術の基本を身につけていた。また、古谷さんが店を構える所沢は、江戸時代から続く大畑作地帯で、東京市場に出荷する野菜の生産農家をたくさん顧客にしていた。こうして、生産・技術・販売という、起業に必要な三つの能力を分け持って、みやま採種組合という共同事業体が発足した。
 三人は、白菜のタネの大手である宮城の渡辺採種場に行き、松島の採種地を見学したり、石灰を使った種子貯蔵庫を見せてもらったりしながら、生産に関する勉強に励む。また、採ったタネを販売してくれそうな各地の中堅種苗会社を訪れ、各地でどんなタネがいま求められているのか教えてもらい、流通の課題をつかんでいく。並行して、祖父が分家した時に本家からもらった土地を試験農場にして、いろいろな野菜を試作しながら、特徴ある「みやまブランド野菜」のタネの育成を目指した。
 現在の店の棚の上に保管してある賞状を見ると、一九五七(昭和三二)年の「みやま早生小かぶ」の農林大臣賞を筆頭に、同年「みやま新西町大根」が全日本銅賞、同三三年「奥武蔵地這胡瓜」全日本銀賞、同三六年「みやま結球白菜」全日本銅賞などが散見できるから、いろいろな野菜を試作して原種を育成し、山間地の集落で採種農家に販売用のタネを採種してもらっていたのが読み取れる。残っている中で一番新しいのが、一九七二(昭和四七)年「奥武蔵地這胡瓜」の全日本銅賞と、同年「みやま四季蒔小かぶ」の埼玉県最優秀賞だから、昭和四〇年代までは、まだ固定種のタネが、種苗業界内部ではF1と並んで互角に評価されていた時代だったことがわかる。
 しかしタネの販売量(つまり全国流通量)は、昭和四〇年代には完全にF1に支配された。みやま採種組合が飯能の山間集落で採種していたタネは、全盛期の三〇年代は「みやま(早生・中生・四季蒔)小かぶ」だけで年間二千リットル以上にのぼり、それを三人で均等に分けていた。畑で選んだ野菜の中で、特別良いと思った野菜のタネは、翌年の原種用にしたが、これも均等分して、各自の名で全日本原種審査会や埼玉県の審査会に出品した。だからもらった賞状も、三軒それぞれの店でもらい、三軒それぞれの店頭を麗々しく飾っていた。しかしやがて川越の斎藤さんが亡くなり、所沢の古谷さんも、固定種が売れなくなると採種事業から手を引いてしまい、現在では二軒とも商店街にあったタネ屋の店そのものが消えてしまっている。
 こうして一九五二(昭和二六)年、僕が小学生になった頃から活動を開始し、中学・高校を通じて、息子たちも母本選抜に動員され、大学時代はニンジン、ゴボウの採種地である長野にもいっしょに行って畑を見回ったみやま採種組合は解散し、飯能の野口種苗研究所一軒だけが残った。
 家が貧乏で高等小学校までしか行けなかった父は、卒業後、養蚕学校に通うかたわら二宮尊徳の信奉者の教えを受けて人生を模索したり、西條八十が主宰する詩誌『蝋人形』の同人になって、童謡を投稿したりして文芸の素養を身につけようとしていた。幼い頃、父といっしょに風呂に入るたびに、湯船の中で両手を動かしながら語る父の訓話が、今も耳に残っている。
 「動物は、なんでも自分のものだと、欲をかいて両手でかき寄せる。しかし、かき寄せても、このお湯のように、みんな脇から逃げていく。人間は、どうぞどうぞと、人に差し出すことができる。人に差し出したものは、このお湯のように、回り回ってちゃんと自分に返ってくる」言葉は違ったと思うが、「だから人のために生きろ」と、幼児の僕に、父は何度も何度も繰り返し言った。
 戦時中から戦後しばらくの間、店の二階には、上野に住んでいた親戚の老夫婦が、疎開を兼ねて間借りしていた。おじいさんは、毎朝東京に仕事に出かけ、帰りには毎日絵本を買ってきてくれた。夜になると、隣の部屋の布団の中で、祖母が僕にその絵本を読んでくれる。気に入った絵本は、文字をなぞりながら自分で読み、暗唱した。母に背負われてお隣と共同の外風呂に行きながら満月を見て、「かよこちゃんがあるけばおつきさまもあるく かよこちゃんがとまればおつきさまもとまる。ほんとだねえ。ほんとだねえ」と声を上げたのを今も覚えているが、あれはいくつの時だったのだろう。上野のおじいさんが毎日毎日新しい絵本を買ってきてくれるので、父が恐縮して、たまった絵本の中から古そうなのをおじいさんに渡し「今日はこれを」買ってきたことにして、勲に渡してくれと言ったそうだ。何も覚えていないが、一瞥するなり僕は「これはもう読んだ」と言って見向きもしなかったそうだ。そりゃそうだろう。本好きの気持ちがわからない父には困ったものだ。
 ご夫妻が上野に帰ると、新しい本に餓えた僕は「つまんない。なんか読むものはないか」と言うのが日課になった。
 持て余した父は、算数の通信教育の教材を取り寄せた。足し算や引き算の答えを書くと、父がポストに投函し、点数がついた答案用紙が戻ってくるのだが、チューリップが並んだ同じような問題にはやがて飽きてしまい、毎週届く『こどもマンガ新聞』のほうに夢中になった。やがて月刊少年雑誌が創刊されると、父は保育園児の僕に『おもしろブック』(『週刊少年ジャンプ』の前身)を定期購読してくれた。小学校への入学が決まり、祖母に連れられて青梅の親戚に挨拶に行った際、青梅駅前の本屋で『小学一年生』を買ってくれようとする祖母の妹に駄々をこね、『小学五年生』でやっと頷いて呆れられたこともあった。学校から帰ると読むものを探し、父の講談全集や世界偉人伝など、手当たり次第に読み飛ばした。この頃の大衆向き読物はすべてルビがふってあったから、祐天上人でも釈迦・孔子・キリスト・マホメットの四大聖人でも、なんでもよかった。うちの中に読むものがなくなると、近所の友だちやその兄姉たちに『おもしろブック』と交換に他の月刊雑誌や漫画単行本、探偵小説や佐々木邦の「苦心の学友」、ジョージ・エリオット「サイラス・マーナー」などの世界名作全集なんかを借りに行く。『譚海』『漫画と読物』『少年』『冒険王』『少年画報』『少年クラブ』『少女クラブ』等々。『漫画少年』を購読している商店街の子供はいなかったから、これは基本的に立ち読みで、「福井英一追悼号」のような特別な号の時だけ祖母にねだって購入した。小学校の図書館で借りた本は、最近漫画化されて話題になった吉野源三郎「君たちはどう生きるか」と小川未明童話全集しか覚えていない。(一九五〇年代の学校図書館には子供が読んで面白そうな本などほとんどなかった)乱読としか言いようがないが、結果的に、手塚治虫の漫画は、赤本時代の単行本から少女漫画まで、小学生時代までに刊行されていた作品は、ほとんど読み終えている。そして、手塚治虫が今に続く「心の師」となった。
 中学生になると下村湖人「次郎物語」が座右の書となり、『週刊少年サンデー』や『週刊少年マガジン』が創刊されたが、同時に貸本ブームの時代になり、毎日貸本屋に通って、貸本劇画を手当たり次第に借り出した。常連になった貸本屋は、飯能店のほかに川越にも店を持っており、川越高校入学が決まると、二つの店の間で本を移動する役を頼まれた。当時の高校生は革カバンをペチャンコに潰して持つのが流行だったが、朝の通学時の僕のカバンは、前日飯能の貸本屋から託された川越店に運ぶ小説類でパンパンに膨れ、帰宅時は川越店から飯能店に移す本でいっぱいだった。もちろん往復の通学時間は、源氏鶏太などそれらの本か、学校図書館で借りた太宰治全集や田宮虎彦作品集、十八史略などを読んで過ごした。高校時代に自分で買った本は、創刊されたばかりの『SFマガジン』(飯能の書店にはなく、唯一置いてある川越駅前の書店では、常に『SMマガジン』と並べられていて、手にとってレジに持って行きにくくて困った)と、母から渡される昼食用パン代の七〇円を貯めて買った武者小路実篤「友情」などの岩波文庫(当時は星一つが七〇円)くらいだった。


 七〇歳をとうに過ぎ、残された時間が少なくなってきた。このところ、生と死について考えることが多い。
もちろん四六時中考えているわけではなく、普段は日常の仕事や、人とした約束などが頭を占めているのだが、ふと我に帰ると、若い頃の出来事を思い出したり、体力の低下に伴って、今後どう生きていけばいいのか、考えているのに気づく。
 物心ついたときにはすでに生きていたわけで、それ以前は空白である。生き物のひとりとして、やがて百パーセント死ぬわけだが、死んだ後のことはわからない。やはり空白だろうとしか言いようがない。
 両親から遺伝子を授かって生きているわけだが、それ以前の祖先は、たぶんバクテリアにまで遡る。バクテリアが変化して生まれたミトコンドリアが生み出す生命力=ATP=によって、寿命が続くかぎり生き続けるわけだ。死んだ後の意識はわからないが、これまで自分を生かしてくれた生命エネルギーは、ミトコンドリア遺伝子の母系遺伝によって、妻から子供たちに引き継がれていく。
 小学五年生のとき、不思議な力に支配されるようになり、理性や感情のタガが外れた。家族全員が出かけて留守居をした夏休みのある日、これ幸いと店と裏木戸の鍵をかけ、二階の八畳間にこもって、支配力の源と思われる下半身に手を伸ばした。ズボンとランニングシャツを脱ぎ裸になって、わが意に反して充血しそそり立っているソイツをピンピンと指で弾いていると、突然身体の奥底から灼熱したものが背骨を貫いて脳天に突き抜けた。その瞬間、ねばついた液体が陰茎の先端から空中に飛び出し、ベタッと天井に張り付いた。何が起こったのかわからないまま、頭がぼうっとして息を弾ませていた。
 それから五〇年ほど、僕の身体は、この不思議な力に支配され続けてきた。中学、高校時代には、他人の目を盗んで、一日に五回も六回も射精した。若山牧水歌集の「いたましき色情狂とならんより波をくらいて死なんとぞ思う」を諳んじていた暗い青春時代だった。一秒間に約千五百個、一日に約一億個作られるという精子の尻尾の付け根には、一精子それぞれに約百個のミトコンドリアがいて、子宮の卵子にたどり着くエネルギーを生み出すという。副睾丸に蓄えられた精子は、一回の射精で多い時は二億五千万個放出され、卵子を目指す。このとき精子の移動距離を人間に換算すると、約百キロメートル全力疾走するのだという。ミトコンドリアが元気である限り、この膨大なエネルギーを抑制できるわけがないと諦めるべきだろう。老化が進み、やっと性欲のくびきが外れたことを自覚したのは、ごく最近のことである。
 看護師になって二年目の娘がいうには、ナースステーションの話題が「老人の性器の小ささ」におよぶことがよくあるそうだ。自分たちの配偶者に比べあまりに小さいので、よくこれで見舞いに訪れる子供たちが生まれたと不思議がっているらしい。
「俺だっていまは、赤ちゃんのように小さくてかわいいよ」というと「お父さんもそうなの」と驚いて、「病院に行ったらみんなに言ってやろう」という。定年退職した人間が多い高校時代の同窓会で、各自の近況報告をした際、この話をしたところ、帰りがけに「野口のコメントが一番良かった」と、感謝された。みんな密かに悩んでいたとみえる。看護学校で「役目を終えた陰茎は小さくなる」と教える必要があると思ったのだが、娘に報告すると、「でも、中には八十過ぎでも大きい年寄りもいる」と反論され、「そのジジイはオクテだったんだろう」と言って鼻白んだ。どんなことにも例外はあるということだろう。


 読んだ本はけっこう覚えているが、学校の授業や出来事は、あまり覚えていない。
 飯能第一小学校一年生の時は、昼休みに、クラスの女ボスの命令一下、女の子たちに校庭中を追っかけられた。なんで追いかけられるのかわからないまま、必死で逃げ回っている夢を、いまだに見ることがある。
 二、三年生の頃は、担任の女教師の指導で書いた作文が、学校放送で朗読された。田舎の親戚にホタルをもらって蚊帳の中に放したらきれいだった。なんて内容で書いたような気がするが、「どうきれいだったの?童話だったら何みたい?」と事細かく指導されて自分の文章ではなくなり、放送の際、朗読したのが自分だったかどうかも覚えていない。学校放送の間中、ただただ耳を塞ぎたいほど恥ずかしかった。
 四年生になるとクラス替えがあり、同級生の中から権力亡者が現れた。目障りな同級生を一人ずつ校舎裏に呼び出し、時には棒や竹竿を使って叩きのめして、男子生徒の上に君臨した。いじめられて都内の私立学校に転校した生徒や、登校拒否になった生徒もいた。担任の男性教師は僕に「学校に来るように毎朝誘いに行ってくれ。いくら遅刻してもいいから」というので、これ幸いと1ヶ月くらい、そのいじめられっ子の家に日参して、いっしょに食事したり、『きりん』という児童雑誌を読んだりした。権力亡者は、親が金持ちで、担任の男性教師を家庭教師に雇っていたのだから、教室内では怖いものなしだ。ただ、僕にだけは暴力を振るわず、蚊帳の外に置いてくれた。僕は、いわばアンタッチャブルな存在だった。二年生から四年生まで一学期の級長だった僕が、二学期に回され、権力亡者が一学期の級長を命じられた五年生の最初の僕の通信簿には、「非の打ちどころがない申し分のないお子さんです。ただ動作がいく分緩慢なようです。知能テストの結果は最優でした」と書かれ、父母は喜んだが、僕には大人のずるさが見えた気がした。(六年生になってまた一学期級長に復帰し、 児童会長をやらされた)
 権力亡者の彼は、中学高校は、都内の名門私立中高に入学し、東大を目指したらしいが、結果的に慶應を出て、大手商社の社員になってニューヨーク駐在員など経験し、定年退職してから突然再び僕の前に現れた。彼の父親の希望だった政治家になりたいから「選挙を手伝ってくれ」という。現在の自宅は世田谷だが「故郷の飯能を選挙区にして衆議院議員になる」という。子供の頃から「人の上に立て。なんでも一番になれ」と父親に教育され、「総理大臣になれ。最低でも埼玉県知事だ」と期待されてきたから、退職して自由になった今こそ「父親が託した悲願を果たしたい」のだそうだ。僕は、「飯能の同級生が応援すると思っているのか?『お前に会ったら殺してやる』と言っている同級生が何人もいるんだぞ」と言って、断った。何人もに頼んで回り、最後に僕のところへ来たようで、その後は会っていない。
( ・・・と、書いたのだが、以前同様の記憶を書いた「メモ」が出てきた。これを見ると、一年後にも会っていたようだ。どうも、どうでもいいことはすぐ忘れてしまう。重複する部分もあるが、発見した昔のメモを、ついでに載せておく)

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小学校四年生のときクラス替えがあり、新しいクラスにボスが生まれた。
「クラスで一番になれ。大きくなったら東大を出て政治家になれ。目標は最低でも県知事だ。この町一番の男になれ!」
彼は、お父さんの言いつけで、ボスになろうと決心した。そして、じゃましそうな同級生をひとりずつたたきのめし、自分の部下にしていった。
「いやだ」と言った同級生は、休み時間に長い棒で何度もなぐりつけられ、女の子の前で泣かされて、家来になった。お金持ちの家のおとなしい子は、さっさと転校していった。いつの間にか同級生の男子ほとんどが、学校の近くのボスの家に、毎朝列を作って迎えにいくようになった。
ボスの命令で仲間はずれにされ、不登校になった生徒が出たとき、担任教師はぼくを呼んで言った。
「毎朝迎えに行って、学校に来なかったら、授業がどこまで進んだか教えてやってくれ。その間は遅刻にはしない」
担任の教師は、ボスの親に頼まれて、ボスの家庭教師をしていたから、ボスは文字通りお山の大将だった。
「なんだかなあ」昼休みに群れをなして野球に興じる同級生を横目に、ぼくはマンガばかり読んで過ごした。手塚治虫ファンになっていたぼくは、学期代わりにボスと交代する級長で、ぼくにだけはボスも「部下になれ」と言わなかった。
「クラスで一番とか、町で一番とか、そんなこと、どうだっていいじゃないか」
幼いころ、父に風呂に入れてもらうと、父は湯船の中で両手をそろえて湯を押し出す仕草をしながら、いつも言っていた。
「人のために、人のためにと押してやると、お湯は自分の方に回って来る。自分のため、自分のためとかき寄せても、お湯は腕の間から逃げてゆく。動物はかき寄せることしかできないが、人間は他人のために押し出すことができる。それは回り回って結局は自分のためになるんだ」
いまでは「それは小さな湯船の中の世界だからじゃないか」と、父に言い返すこともできるが、三つ四つのころは、この人生訓に「なるほど」と感心していた。だからいまでもこの「三つ子の教え」が、ぼくの基本にある。
小学時代のボスは、中学から東京の私立有名校に進学し、田舎町のぼくたちと別れた。大学から有名商社に就職し、海外生活を過ごしたのち、定年退職して田舎町にひさしぶりに顔を出した彼は、
「父の念願だった国会議員にこの町から立候補する。応援してくれ」 と言って、ぼくたち同級生を驚かした。
「バカ言っちゃいけない。君と今度あったら殺してやると言っている同級生だっているんだぜ。後援会なんかできるわけないだろう」
「そうか」肩を落として帰った彼が再び立ち寄ったのは1年後の春だった。
「これからの世界はバイオエネルギーが支配する。農業会社を起こすことにしたから、タネを提供してくれ。やがてはトン単位で買ってもうけさせてやるけど、いまは試作用だから10kgか20kg程度でいい」
「あのねえ」空いた口がふさがらなかった。
「オレは確かにタネ屋の三代目だが、プロの農家がいないこの町では、家庭菜園用のタネ屋だよ。一袋5ミリリットルとか10ミリリットルで売っているタネ屋が、10kgの菜種をタダでくれてやれるわけがないだろう」
「どのくらいならもらえるんだ」
「ここに一昨年の残りが1リットルある。これならタダでやってもいい」
「じゃそれをもらおう。結果は後で報告する」
半年後に電話が入った。
「農家にタネを蒔かせたが、いつまでたっても花が咲かない。どうなってるんだ?」
「どこの農家だ」
「まだ極秘のプロジェクトだから、場所は言えない」
「アブラナ科植物は、低温感応性といって、寒さにあわないと花芽ができないんだよ。冬が過ぎて春にならないと花が咲かない。だから秋に蒔くようにって言ったじゃないか」
「ドイツじゃ秋に菜の花が咲いていたのを見た」
「日本でも北海道だったら、夏の終わりには寒くなるから、秋に菜種が採れるだろう。北海道以外じゃ、春にならないと菜種は採れん」
「そうか」
それ以来彼からの便りはない。
どうも世界経済というマクロな視点でタネを考える人間と、家庭菜園という自分が食べる野菜の視点でタネを考える人間では、同じタネを見る見方が、まるで違うらしい。
[2013.7.22 記]

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 飯能第一中学校は、県下一のマンモス中学で、四つの小学校から生徒が集まってきた。一小時代に権力亡者に「はい。はい」と従っていた小学校の同級生たちが、中学では手のひらを返したように、彼の悪口を声高に言い始めたのにはびっくりした。「長いものには巻かれろ」という日本人の迎合精神は、子供の頃から培われているようだ。もっとも、グリコが仕掛けた切手ブームに踊らされ、「趣味の王」という言葉を信じて切手収集を始めた僕が、偉そうに言えることでもないが。
 中学一年の時、校内学力テストで二番だった僕は、「一番になったら好きな切手を買ってやる」という父の甘言を信じて、生まれて初めて家の勉強机に向かった。そして、次の学力テストで、クラス五三人中一位、学年五三〇人中一位になった。欲しかった切手は、高価で子供には手が出ない「月に雁」とか「見返り美人」といった日本の記念切手だったが、父が東京から買ってきたのは、外国切手三〇〇〇種が入った大きなパックだった。「多けりゃいいってもんじゃない」とがっかりしたが、父は「勉強の一助になる」との親心で選んだのだろうと諦めて、ストックブックを何冊も買って、その晩からわけのわからない国々の切手を、国別・年代順に整理し始めた。マジャールがハンガリーだとか、CCCPがソ連だとか、雑学的な知識はいろいろ身についたが、毎晩毎晩、机に向かっても外国切手の整理ばかりしていた結果、その後の学年順位は、一〇位前後が定位置になってしまった。
(大学時代、国文コースの男子学生はたった二名だったから、彼を下宿に誘い、この「クラス一位、学年一位」の成績表を見せると、「熊本でこの成績だったら、町をあげて応援して東大に入れ、国の金を熊本に持って来る官僚にする」と言ったので、「首都圏じゃそんな話聞いたこともない」と驚いた。今でも政治家や官僚が人間として信じられず、どちらかといえば嫌いなのは、小学と大学の二人の同級生の言葉の影響かもしれない)
 川越高校に入学が決まり、国語の教科書を手にした時、巻頭の島崎藤村「千曲川旅情の歌」の七五調の調子の良さにはまってしまい、全文暗記した。すると入学前の(多分クラス編成のための)学力テストで、国語の問題がこの「千曲川旅情の歌」だったから「ラッキー」とすいすい解いたら、入学したら、僕の名前が満点で張り出された。一日目の授業が終わり、新聞部に入部届けを出して、川越駅への帰り道を歩いていると、誰かが後を尾けている。振り向いて「何か用かい」と聞くと、「お前すごいな」といい、「友達にならないか」という。「いいよ」と答えると、喜んで並んできた。同じクラスになった毛呂山町のO君で、両親は教師で、東大学力増進会の県下一斉テストで、飯能の野口の名はずっと気になっていたという。こうして最初に友達になったO君だが、いざ実際の授業が始まると、「大学入試のため」を金科玉条として進められる授業内容についていけず、「アホらし」と脳内シャッターを降ろしてしまった僕は、全ての成績が落ちるだけだった。それに比べてO君は成績が良く、常に学年で五番以内にいた。
 二年に上がる時のクラス替えで、国立志望理系クラスの彼と、私立文系アタマの僕は別れることになったが、彼は「別れたくない」と、部活にまったく興味がなかったのに、僕の所属する新聞部に入部してきた。
 その後彼は新聞作りの面白さにはまり、慶應大学の三田新聞編集長になり、中日新聞社に入社して、今は役員になっている。


 高校時代このかた、自分の頭の悪さに絶望している。
 小中という義務教育の時代は、授業を聞いているだけで、ほぼなんでも理解できたのに、高校の授業は、まったく理解できない。理解させるより、公式や定理を暗記して、例題の演算を繰り返し、決められた答えを早く出すことを求める高等教育システムが、体に合わなかったとしか言いようがないが、それでも多数の同級生はちゃんと成績を上げているのだから、根本的に能力がないのだろう。
 数学のテストが赤点ばかりで、追試で良い点を取らないかぎり三年に進学できないと知った時、高校中退を覚悟したが、新聞部長のY君から手紙が来て、「君がいるから、こんなつまらない学校にもいられる。君がいなくなったら、僕はどうしたらいいんだ。頼むから僕のために補講を受けて、追試をクリアしてくれ」という文面に泣かされた。しかたなく補講を受けると、「この例題を暗記するよう」数学教師に言われ、暗記した問題がそのまま試験に出て、なんとか三年に進級できた。「なんだかなあ」と思ったが、昔から追試とはこういうものなのだろう。三角関数だったか因数分解だったか微分積分だったか忘れたが、もちろん今だにその問題は理解できていない。
 理解できないのは数学や物理などの理系科目だけでなく、英語まで全然わからないのだから、たぶん原因は「やる気がない」という一点に絞られるのだろう。英語の名物教師は授業中、「君の英語力は中学二年生ですね」と呆れていた。英文法や構文はもちろん、英単語も覚える気がなかったから、今もパソコン操作中に英語のアラートが出るたびに、スタッフを呼んでやってもらっている。(インターネットの時代がこんなに早く来るなんて、当時は考えてもいなかった)
 どうにか理解できて興味が持てたのは、国語と世界史だけだった。(年代を暗記する気がなかったから、日本史は選択しなかった)
 成城大学の入試は、国語と英語と世界史で受けた。英語の答案は、書きかけた答えを終了間際に消しゴムで全部消して、白紙で提出した。合格者発表の日は、自信がなかったから見に行く気もなかったが、当日朝に明治大学文学部の補欠合格通知が届いたから、どっちに転んでも所詮なるようにしかならんと、成城大学に見に行ったら、合格していたから驚いた。それより驚いたのは、入試当日、僕の後ろの席で、三科目とも答案用紙が配られるとすぐに、名前を書いただけで提出して試験場を出て行った受験生の番号が、僕と並んで合格者発表の中にあったことだ。
 入学すると、その男が僕と相次いで成城大学新聞会に入ってきた。「俺のうちに来い」というから、いっしょに新聞会に入った新入生二、三人と連れ立って遊びに行った。和風の豪邸の玄関の引き戸を開けて入ると、土間から上がる広い座敷に囲炉裏があり、そこに名前だけ知っているプロレタリア詩人が座っていた。「お邪魔します」と挨拶するとぷいと横を向いてしまわれたが、代わって奥から出て「どうぞ」と座敷に招じ入れた小太りの田舎のおばさん風の方が、この家の奥様、「二十四の瞳」の作者、壷井 栄だった。


 大学に入って最初のクラスコンパがあり、自己紹介で将来の目標を発表した時、「少年漫画雑誌の編集をしたい」と言って、担任教師をはじめ学生全員に大笑いされた。今みたいに漫画やアニメがクールジャパンの代表格としてスポットライトを浴びる時代ではなかったから、大学にアカデミックな雰囲気を期待して入学してきた同級生たちには心底意外だったのだろう。僕としては、少年時代に夢中で読み、面白さの中に文明批評や人生哲学を秘めた手塚漫画のように、時代を変革できるような力を持った新しい漫画を生み出したかっただけなのだが、漫画にそんな力があるとは誰にも信じられていない時代だった。
 大学に入ってわかったことは、教師に逆らってはいけないということだ。(まあ小中高でも同じだったのだろうが)漫画学部なんかない時代だから、児童文学研究でもできたらいいなと思っていたが、国文コースにはそんなカリキュラムすらない。新元号で名を馳せた万葉集研究の中西 進先生はじめ有名教授がたくさんいるのだが、夏休み前にきちんと製本された「太平記」をばらして学生に配り、「休み中に全単語を一つ一つを書き出して品詞別に数える」という宿題を出した中世文学の 泰斗にはがっかりした。「こんなのはやがて機械が自動的にやる時代が来るはずだ。ゼミの生徒ならともかく、国文生徒全員でやることか」と、放っておいたら、真面目な女子学生たちから、「私たちでやるから、割り当てられたページを送れ」と連絡が来て助かった。
 教養課程で唯一知的刺激を受けた授業は「西洋哲学入門」だったが、前期試験で教師に教わった通りの答えを書いたときは、評価「優」だったが、後期試験で「こんな考え方もできるのではないか」と、自分の意見を付け足したら「可」だった。大学とか学問というのは、教師の僕(しもべ)になる世界なのか。そう合点したら、卒業まで大学にいる気がしなくなった。相変わらず英語は苦痛でしかなかったし、おまけに第二外国語のフランス語にまで苦の世界が広がって、このままではどう考えても三年の専門課程に進級できそうにない。さあ困った。
 出版社への就職が目的で入った大学だが、中退ではどこの入社試験も受けられない。恋人もできたというのに、どうしようかと思っていたら、下宿先で見た朝日新聞に、虫プロ資料室の求人広告が載っていて、資格は高卒以上とあった。資料室というのがどんな仕事をする部署か知らないが、手塚治虫の漫画原稿の整理や、漫画やアニメ作りのための資料を集めるところではないか。それだったらやってみたい。そして社内異動で、前年できて『サンデー毎日』の手塚治虫インタビューで紹介されていた出版部に移れればめっけもんだ。と、入社試験を受けてみた。ペーパーテストを終えて面接の時、「資料室って何をするところですか?」と聞くと、「バンクシステムといって、撮影を終えたアニメのセルや背景を集めて管理し、新らしい作品を作る時、流用できるものを 見つけるところだ」という。「じゃ、やめます」とすぐ言ったら呆れられて、「君は虫プロで何がやりたいんだ」と聞くから、「出版です。やがて出版部に移れるなら資料室に入ってもいいけれど、聞いた感じでは出版とは全く縁がなさそうなので」「こっちもバンクシステムのプロを育てたい。出版部はいま募集してないが、募集するときは君に声をかけるように出版部長に言っておくよ」
 二、三ヶ月経ち、年が明けてから出版部の名で「欠員ができたので、一名募集することになりました。アニメ担当の穴見常務から、募集するときは、あなたに知らせるよう連絡を受けていたので連絡します。受験される場合は、〇月〇日〇時に虫プロにきてください」という手紙を受け取った。
 当日虫プロの第一スタジオに行ってみると、五〇人ぐらいの就職希望者がいた。見たところ、まだ就職が決まらない新卒四年生が多そうだ。全員が常識問題のペーパーテストと、志望動機の作文を書かされた。この日も面接があったかどうか覚えていないが、数日後に採用通知が届いた。
 出社日の前に父と大学に行き、学生部長に退学届けを出した。退学届けを受け取った学生部長の橋本先生は、「これまで随分多くの中退者を見てきたが、こんなに嬉しそうに退学していくヤツは初めてだ」と、笑った。


手塚先生と初めてお会いした日のことは『タネが危ない』にも書いたし、「手塚番千夜一夜−First Contact−」で詳しく書いたので、ここでは省略する。

 この後は、上記に続いて書くつもりだった「虫プロ出版部(出版部出版課)と漫画部(出版部漫画課)で、千葉に一泊旅行に行った日のこと」を書いてみる。

 秋田書店『冒険王』の阿久津編集長による暴力的で手荒い洗礼を受けてから、僕は原稿の催促を一切しない、ひたすら待ちに徹する手塚番になった。
『鉄腕アトムクラブ』に手塚治虫先生が連載していた「ボクのまんが記」という随筆は、翌々日に昼間担当手塚番の校条さんが受け取った。翌日の日曜日は、山崎編集長の自宅の引越しを手伝った。大日本印刷での出張校正を終え校了が済むと、僕の歓迎会を兼ねた(らしい)房総への一泊旅行が計画されていた。
 多忙な手塚先生は参加されないが、当時の虫プロの組織上、同列にあるアシスタントたち漫画部と、アトムクラブ編集部である出版部、それに手塚家の住み込みお手伝いさんを交えた一行二〇人弱が、鴨川の旅館に泊まった。車座になった宴席の、僕より右が出版部の男性陣、左が漫画部の男性陣で、挟まれた向かい側に、女性陣が並んで座った。真向かいが僕と同年輩のお手伝いさんで、手塚邸での仕事中は気づかなかった清楚な美しさに見とれていた。
 宴たけなわになると、山崎編集長が来て、「漫画部にお酌して回れ」という。同い年の下村風介、成田マキホ、一つ上の小室保孝(孝太郎)氏はじめ鎌田忠春、井上 智、大野 豊さんたちに「よろしくお願いします」と正座してお酒をついでまわり、返盃を受けているうちに酔いがまわってきた。 女性陣の席に移ったが、出版部の三人はすでに顔見知りなので軽くとばし、お手伝いさんの前であぐらを組むと、質問を開始したようだが、実は何を話したかまったく覚えていない。
 やがてトイレに立ち、トイレから廊下に出ると、小室氏と下村氏が待ち構えていた。小室氏が「お前、生意気だぞ」というから、(お手伝いさんに惚れてるのかなと思いながら)「ああ、そうですか」と答えると、小室氏が顔を近づけて何事かささやいた。次の瞬間、僕は血相を変えて旅館の廊下を走った(らしい)。が、これもまったく覚えていない。
 この夜は雨が降っていたのだが、雨の中を二階の物干しから柱をよじ登り、旅館の大屋根に跨がって、雨に濡れながら「手塚治虫をここに呼んで来い」「手塚治虫の馬鹿野郎」と口走っていたのをかすかに覚えている。下からは、「野口くーん」「野口さーん」と僕を探し回る出版部の人たちの声が聞こえていた。
 翌朝、白浜へ向かうバスの中で、編集長に連れられた僕は、漫画部のチーフお二人に謝った。「お騒がせして申し訳ありませんでした」と頭を下げた僕に、大野さんは苦虫を噛み潰したような顔をしたが、井上さんは「酔っ払えばよくあることよ」あまり気にするなと、笑ってくれた。
 白浜の海岸は打って変わった晴天で、広い砂浜で模造刀を振り回す小室氏を、二日酔いの僕はぼんやりと見ていた。
(それにしても小室氏は、僕に何と言ったのだろう?かすかな記憶の流れをたどると、「阿久津さんにお前を脅させたのは手塚先生だぞ」しか考えられないが、聞いた瞬間僕の頭は真っ白に飛んでしまって、今になってもわからないのだ)
遊び呆けていた学生時代から、 虫プロに入社して一週間ぐらいの間に、あまりにいろいろなことが起こり、混乱した精神は体にも変調をきたしたようで、房総旅行から自宅に帰った晩、強烈な腹痛に襲われた僕は虫垂炎と診断され、緊急入院して手術する破目に陥った。


 ところで。出版部はのちに版権部といっしょになって虫プロ商事となり、漫画部は手塚プロダクションとなって、ともにアニメ制作会社である虫プロ本体とは別会社になる。
 手塚プロ社長室勤務だった真佐美ジュン(下崎 闊)氏のブログによると、当時のアシスタントの間では「野口事件」(手塚先生にどんな漫画が好きか尋ねられ、正直に、先生以外の名前を挙げた結果、先生の仕事が遅れたせいになり、関係がない、他社の編集長に、脅かされた)として有名だったらしいが、その場にいたのに事実誤認も甚だしい。現在の僕の認識は、「原稿待ちの編集者(手塚番)は必要(居ないと描かない)だが、催促されるのは鬱陶しい。そこで一切催促せず、手塚ファンで、言われたことだけやって邪魔をしない、都合の良い社員編集者が欲しかったから、『冒険王』のアークズ・ノブミッチ氏に依頼して、社員編集者の心構えを叩き込んでもらった」というものだが、希望的観測に過ぎるだろうか?
 ともあれ盲腸手術をして1週間ほど入院し、寝込んでいる間に、山崎編集長が見舞いに来た。そして、「出版部は近く池袋に引っ越すことになった。また、これまで代筆だった「鉄腕アトム」の漫画を、創刊当時のように手塚社長が自ら描くことになった。もちろん担当は君だ。一日も早く出てくるように」と、伝えて帰った。


 と、いうわけで『鉄腕アトムクラブ』1965年6月号より手塚治虫先生作画「鉄腕アトム」の担当になった。(これ以前の4,5月号は北野英明氏)ページ数はオフセット2C×1C=3Pに活版7Pの全10Pと少ないが、一切催促しないでひたすら待つだけだから、手塚邸に延々泊り込んでいる。泊り込みながら電話番や玄関番、手塚先生が投げて寄こすファンレターへの返事を代筆したりしながら。やがて最初のオフセット部分を受け取ると、なんと大人のアトムとウランが、子供のアトムの家にやってきて、子供のウランが驚く場面から始まっている。ロボットにも年をとらせることになり、10年成長した姿だという。この18才になったアトムの服装が、当時出勤していた僕の大学時代の制服である紺の背広上下服姿だったから、受け取って池袋に引っ越したばかりの出版部に持っていくと「この大人のアトムは、野口がモデルじゃないか?」と言われ、女性軍に「アトムちゃん?」と言われたりした。そんなことは絶対ないだろうと思ったが、9年後に「ブラック・ジャック」のゲストスターとしてアトムが出た時、役柄の名前が「いさお(伊佐男/鬼子母神の息子の巻)」なのを見た時、もしかして手塚先生の頭の中で、アトムと僕がオーバーラップするときもあるのかな?とも思ってみる。
 アトムクラブの「鉄腕アトム・盗まれたアトムの巻」は、6月号から9月号まで続くのだが、実は8月号で終わるはずだった。というより、最初にもらった原稿では、終わっていた。先生から最後の活版部分の原稿をいただいて、ソファーで拝見すると、突然話が終了してしまい、7月号で初登場した副主人公格のイギリス秘密諜報部のJ・ムズムズ・ドボン氏(もちろんジェームズ・ボンドのもじり)も消えてしまっているので、「ン?」と首をかしげたが、社長である作者手塚治虫が、これでいいと思って手渡してくれた原稿なのだから、持って帰らないわけにいかないなぁと、「ありがとうございました」と言って部屋を出ようとしたとき、「ちょっと待ってください」と、手塚先生に呼び止められた。「すみませんが、書き直したいので、もう一日付き合ってもらえませんか?」そうこなくっちゃと、「はい。もう一日お待ちします。その代わり、この原稿、僕にいただけませんか?」というと、一瞬驚いた顔をしてすぐ破顔一笑。「あははは。未使用原稿だから高いですよ。いいでしょう。それはあげます」というわけで、もう一日待った結果、8月号では話が終わらず、9月号に「つづく」となり、僕は貴重な「鉄腕アトム」の未使用完成原稿6Pを我が物にしたのだった。
 今もこの原稿を僕が持っていれば、我が家のお宝であるとともに、やがては国宝にもされるべきものと思うのだが、実は持っていない。非常にやるせないいきさつがあって、間もなく僕の手元から飛び去ってしまった。


「COMの神話」第一回(『コミックアゲイン』1979.5月号/みのり書房)

 編集屋としては先輩でありCOMで後輩になり、かつまた一時は社長であったという僕にとって縁の深い本誌鈴木(※清澄)編集長から、深夜突然電話がかかってきた。
「今度、みのり書房の仕事をすることになり、連載でCOMの編集者の思い出話を載せることにした。やがて石井ちゃんや俺も書くが、最初の創刊当時のことをアトムクラブ時代も含めてお前頼む。タイトルは「COMの神話」に決めた。いい名だろう」・・・と。
 ちょうど『PEKE』最終号の「幻の雑誌COM大特集」を読んだ直後であり、飯田(※耕一郎)君たち若い編集者の顔を思い出しては、多少の感慨にふけっていた時なので、気軽に応じたのだったが・・・今、筆を起こす段になって、大いなる逡巡に見舞われている。
 大体「COMの神話」なんて言葉は、読者にとってこそふさわしい言い方で、僕を始め当時作り手だった者にとっては、状況はより陰惨で、雑誌作りに意欲を燃やす前に、くだらぬ人間関係に消耗し尽くされてしまうという、なんとも散文的な悪夢の連続だったはずだ。編集者のウラ話となると、必然的にそういった内部事情に踏みこまざるを得ない。しかし、それでは「神話」の破壊になるのではないか。逡巡した第一の理由は以上のようなことであり、第二・第三は、特定関係者(対象は時代によってそれぞれ異なるが)の個人攻撃になるおそれがあり、僕ら自身にとっても良い結果を残さないだろうという、保身上と精神衛生上の二面の理由からである。
 しかし、あたりさわりのないエピソードのら列ばかりでは、本稿の趣旨に反するだろうし、第一とてもスペースが埋められない。『鉄腕アトムクラブ』と『COM』の山を横に、頭かかえているうちに〆切日となってしまった。ままよ人間、書けるようにしか書けん。「正直の上にバカがいくつもつく」と山崎編集長に呆れられていた僕だ。地でいけ! と居直って、「これはあくまで野口某という新米編集者の見たCOM創刊前後の記録である」と、ことわった上で、書くことにする。何が出てくるか、知らんぜ。
 さて、話の順序として、まず自己紹介をさせてもらう。
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S19・埼玉・飯能の商店の長男として誕生。保育園時代から『おもしろブック』で育ち、小学生で手塚狂。中学時代は貸本劇画のトリコとなり、高校頃からマンガ雑誌編集者志望となる。
S40・3月、大学を中退し、虫プロ出版部に入社。手塚先生担当を主任務とし、以後アトムクラブ終刊までとCOM創刊号から3号まで編集に従事。
S42・光文社の豪華版・手塚治虫全集を編集。(発行直前に企画中止となり家業に戻る)
S45・虫プロ商事に再入社。グランド・コミックスシリーズ(真崎守「はみだし野郎の子守唄」等)を作る等主に単行本を編集。(秋からCOM編集も)
S46・岡田史子と結婚。(S48年離婚)鈴木プロに入り、TV紙芝居「ゴルゴ13」の進行。編集下請屋として雑誌版「あしたのジョー」のまとめ、『劇画セレクト』『コミックVan』等の編集に従事。
S48・大都社の創立に参加。マンガ雑誌を創刊する予定が幼児絵本となり悶々。ハケ口をブロンズ社に求め「もう一つの劇画世界シリーズ」企画を持ち込み無償編集。永島慎二「漫画のおべんとう箱」(青林堂)編集にも参加。年末、手塚治虫「奇子」を置き土産に大都社およびマンガ界を去る。
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 二年余のブランクを含め、九年間の編集屋生活だったが、やはり一番思い出深いのは、最初の虫プロ時代である。
 ところが、依頼を受けてマンガの山をかきまわし、押入れの段ボール箱の中身をひっくり返しているうちに、昔の手帳が数冊飛び出してきた。パラパラ見ているうちに心臓は不整脈を打ち出し、昂揚していた気分は奈落の底に打ち沈んだ。呪詛と自虐の言葉に満ちたそれこそ、アトムクラブ末期のノートだったのである。(呪詛とは山崎”鬼”編集長に対してだが、自虐の原因は多分に当時の失恋にある。大学時代から三年間続いた交際から彼女を去らせた第一要因は、月に一度のデートもできないハードスケジュールにあった)
 十二年前のノートを見ると、とにかく実によく働い(かされ)ているのに驚く。1ヶ月の残業150時間以上。これは平均すると毎夜12時まで勤め、なおかつ日曜に8時間出勤するのと同様である。(現実に日曜日に編集会議を開いたりしている)自宅の遠い僕は、終電がなくなると当然泊りこみとなり、月に一度の校了明けの日曜休みは、着たきり雀でヒゲボウボウ。寝るのに必死でデートどころでなく、無理して会えばフラれるのが当然だった。
 ここで当時の一週間をみてみよう。これはアトムクラブS41・3月号のためのものだがCOM創刊当時もほとんど同じはずである。
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1/23(日) 16:00手塚邸に出勤。午前一時まで「ボクのまんが記」文字原稿とり。手塚邸泊り。
1/24(月) 9:00起床。10:00より池袋の事務所で「ボクのまんが記」文字原稿と4C口絵カレンダー送稿。カレンダー裏2C「ワンダースリーの反陽子爆弾が爆発したら」レイアウト。16:30池袋を出、18:00調布の水木しげる氏に「特集 おばけ入門」原稿依頼。21:00石井治氏4C扉絵受取り。22:30〜25:00富士見台手塚邸に戻り鉄腕アトム原稿待ち。(泊り)
1/25(火) 9:00〜17:00手塚邸で鉄腕アトム原稿待ち。17:30事務所で鉄腕アトムネーム送稿と石井治氏4C扉絵送稿。デスクワークの間じゅう山崎氏に「編集長に無断で水木氏の原稿料を決めるとは何事か」とどなられ、結局「ページ千円安くするからお前言え」ということになる。(※喫茶店で水木さんに「原稿料はいくらですか」と聞かれたから、「石森章太郎さんでページ五千円ですが」と答えたら、「じゃ同じでいいです」と言われ、そのまま報告した結果)21:00退社。終電ギリギリまで飲む。
1/26(水) 5:00起床。10:00まで自宅でカレンダー裏2Cの文字原稿作成。12:00池袋に出社。カレンダー裏とおばけ特集4C扉絵送稿。19:30手塚邸で鉄腕アトム原稿待ち。25:30まで待つがオモ線一枚のみ。(泊り)
1/27(木) 8:30〜12:00まで手塚番。12:30手塚番を校条さんに代わり、事務所でデスクワーク。20:30水木氏宅で原稿受け取り。23:30手塚番再開。1/28 6:00鉄腕アトム原稿完成。仮眠。
1/28(金) 11:00〜池袋の事務所で写植貼り等のデスクワーク。21:00水木氏宅画面伸ばし要請。(※水木さんには平綴じがわからず、ノド部分の画面寸法が足りなかったため)23:30成田マキホ氏自宅アパートにて「日本おばけ地図」打合せ。同氏宅泊り。
1/29(土) 12:00〜16:00手塚番。「ボクのまんが記」カット上がる。一旦事務所で送稿し、夜成田氏と相談しながら「日本おばけ地図」作成。完徹。
(※僕が企画した「特集 おばけ入門」は、本が出てから手塚先生に、「野口さん、こんな、どこの少年誌でもやってるようなことは、アトムクラブではやらないでください」と、怒られてしまった)
(※※前年末のクリスマスの夜、彼女に振られてしまった僕は、年明け後もずっと落ち込んでいた。ある晩、手塚先生と二人だけの時、先生が言った。「今日、撮影課長のSちゃんのお父さんとお母さんが来たんですよ」「知ってます」手塚邸二階の応接室に上がったまま1時間近く降りてこなかったから、下でやきもきしていた。「Sちゃんの結婚式の仲人をボクがしたから、そのお礼に来たんだけど、そのときご両親が言うには、Sちゃんに妹さんがいるんだけど、虫プロで一番いい人と、お見合いさせたいと言うんですよ」フンフンと聞いていた僕は、次に出た言葉にびっくりした。「野口さん、お見合いしてみませんか?」「だって、僕はまだ21ですよ。結婚しても家族を食わせていけません」「共稼ぎすりゃいいんですよ。虫プロには共稼ぎがいっぱいいるでしょう」「僕は結婚したら女房には家にいて欲しいので、共稼ぎはしたくないんです」ご両親に請け合っていたのか、手塚先生は「そうですか」と、肩を落とした。そして、しばらくしてから言った。「野口さんが結婚するときは、ボクが仲人するからね」「ありがとうございます。そのときはぜひお願いします」。虫プロ全社員500人の時代、「一番いい人」と言われたんだから、嬉しかったなあ。結局やがて岡田史子と結婚するはめになるきっかけが、COMの仕事を二人して放り出しての駆け落ち心中旅行だったから、とても仲人など頼めるはずがなかったけれど・・・)
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 こんな状態が、まあ二年近く続いていたわけである。よく身体がもっていたと今では驚くが、当時は若かったのと、手塚先生自身がもっとひどいオーバーワークの渦中におり、社員として当然のことと思っていたのだった。
 ところで、肝心な『COM』の話だが、この頃一月一〇日にアトムクラブの体質改善の話が出ており、B5版106ページで五万部くらい刷り、市販しようと計画したことがある。(当時、アトムクラブはA5版76ページ。発行部数は公称五万部だが、実際に刷ったのは二万程度。しかも郵送で購読者=虫プロ友の会々員=に渡るのは、わずか二三七七通(41年3月号)にすぎなかった。毎月確実に赤字を出していたわけで、虫プロにとってはお荷物以外の何物でもなかったのである。従って当時の我々出版部七名の事務所もひどい所だった。前年の四月(僕が入社して1ヶ月後)に、出版部は富士見台の本社を去って池袋に移転したのだが、半年後に移転した稼ぎ頭の版権部が東口から1分の九階建てビルの三階専有だったのに比べ、当方は西口から10分離れた材木屋の二階の一室。歩くとギシギシ床が鳴り、すぐ流しがつまって臭くなる狭い部屋だった。
 ともかくそんな状況の中から、新雑誌へ移行の話が徐々に出、我々も九階建てのビルに移り、虫プロ商事という新会社の発足へとつながってゆくのである。ーーと書くと、COMの創刊は実に計画的に行われたようだが、実は全く逆であった。一月に企画会議を持った新雑誌の話は、そのまま立ち消えとなり、四月上旬、今度はアトムクラブ廃刊の話だけが出版担当の桑田常務から発表される。「なんとしても金を稼がなくちゃダメだ。稼げる仕事をしない限りここから出られない。というようなことを力説されたように思う。この前三月下旬に一度版権部のビルへ移転の話があり、延期になっているから、上部でいろいろあったのだろう。
 山崎編集長は荒れていた。連夜朝方まで飲み続け、昼ごろ酒の抜け切らぬ様子で、誰彼構わず罵声を飛ばした。被害者は周期的に交代していたが、当時の主要ターゲットは僕であった。三日にあげず怒鳴られたあげく辞表を出し、高校の先輩だった桑田常務に慰留され、その晩朝まで山崎氏と飲み歩く。なんて、バカなことを続けていた。
 廃刊の話が出ても、アトムクラブは続いていた。(アトムの豆本を作るくらいしか、他には仕事がなかったのだ)この頃僕が担当していたのが「きみもまんが家になれる」という特集や、まんが道場、もりまさき氏の「グループ誌の作り方、草森紳一氏の「児童まんがの歴史」尾崎秀樹氏の「わんぱくまんが月評」をセットした「まんがジャーナル」というページで、これがやがてCOMの活字ぺージの母体となっていく。
 夏、出版部は手塚先生の原稿管理と単行本のまとめ、出版社との窓口を担当することが決まり、(実際は有名無実に終わったが)これを手土産に版権部のビルに移り、虫プロ商事が発足する。僕はこれらの決定に従って、夏の間手塚邸の書庫(というか二階の和室に原稿が詰まったロッカーを並べた物置)に籠り、旧原稿の山に埋もれて整理に没頭する。(編集者生活を通じて一番幸せな時だったかもしれない)他の人たちも手分けして、各出版社の倉庫に眠っている原稿を引き上げて回った。(この時、鈴木出版の手塚治虫選集の表紙絵が、何点も無くなっているはずである。犯人の名はあえて言わない)※と、以前は書いたが、言ってしまおう。鈴木出版の応接室に我々だけがいるとき、山崎さんが言った「記念に一枚ずつもらおうじゃないか。俺はこれにする」。M氏「じゃ僕はこれ」。Yさん「私はこれがいい」。「野口君は?」「いりません」。手塚邸二階の宝の山に一人で1ヶ月近く籠りながら、カット一点たりともくすねなかったのが僕の誇りだ。自分に恥じる行いは、絶対できない。
 そんなこんなで秋を迎え、11月号の色ページも全部揃ったある日、突然アトムクラブの廃刊=新雑誌(後に手塚先生が『COM』と命名)の創刊命令がくだされたのであった。発行予定の12月まで、二ヶ月しかなかった。
(鈴木編集長の当初の依頼は、今月号でCOM創刊号のこと、次号で2〜3号のウラ話のはずだったが、メモと懐かしさに引きずられて、ついアトムクラブに誌面を割き過ぎてしまった。次号は七転八倒の創刊号エピソード集。本邦初公開秘話多数。乞うご期待!)[1979.1.22記]


「COMの神話」第二回(『コミックアゲイン』1979.6月号/みのり書房)

 前号では自分のことばかり書きすぎたから、ここでCOM創刊当時の出版部員を紹介しておこう。
 まず桑田裕(ゆたか)部長。元光文社『少年』編集部で「鉄腕アトム」を担当。光文社が登録商標していたアトムの版権を手土産に虫プロに入社。常務。親分肌の人で、編集にはほとんど(というか、まったく)口を出さなかった。(この頃、漫画家著作権協議会を主宰)
 山崎邦保編集長。元秋田書店で少女雑誌『ひとみ』編集長。小冊子『鉄腕アトムクラブ』当時、大手月刊誌に対抗し、一カットたりともおろそかにしない制作態度で、部下・執筆者に「鬼」と怖れられた。駆け出し編集者の僕に、カラーページのレイアウトまで任せ、オフセット印刷を教えてくれた。後『ファニー』編集長兼出版部長。(故人)
 石井文男氏。COM副編集長格。(後に終刊まで編集長)秋田書店『漫画王』編集部から、編集プロダクションを経て山崎氏とともに虫プロ入り。少年誌レイアウトの天才で、COM創刊時の表紙レイアウトもこの人。COMの創刊から最後まで立ちあったただ一人の人だ。(この頃、徳間書店『アニメージュ』編集)
 校條(めんじょう)満氏。歴史書出版社(雄山閣)からの転身。僕と交代で手塚先生についたり、座談会等活字ページを担当。後に虫コミックス編集長となり、山崎氏没後は出版部長となった。太った体をいつもゆすり、汗を流してかけまわっていた。(この頃、徳間書店『アニメージュ』編集)
 野川春子さん。虫プロ草創期からのメンバーの一人。万年少女(?)の絵本マニア。「悟空の大冒険」と入広を担当していたが、この人の本領は、後にエッセイコラム「まんがと私」を作ったことと、俳優・米倉斉加年氏に初めて絵本を描かせ、国際的絵本作家を誕生させたことだろう。ご主人は五木寛之氏の友人で、文壇登場前から五木氏の魅力をさんざ聞かされた。「のぶひろしに比べたら、ここの男なんて皆クズよ」と。後『ファニー』編集。(この頃、主婦の友社『ギャルズライフ』編集)
 岸本節子さん。ご主人は虫プロのプロデューサー。(後に『ガンダム」のサンライズ初代社長の岸本吉功氏。故人)お母さんは講談社の校正ウーマンで、セッコさんのチェックを受けないと、担当ページを校了にできなかった。グラマーな美人で、人妻になってからも、この人の顔を見に通ってくる他誌の編集者がいたほど。
 箭内和子さん。虫プロ友の会の事務を一手に引き受けていたが、COM創刊後会がなくなり、社内結婚のご主人と退社された。お目々パッチリの美人で、当時出版部への来訪者は、女性陣三者三様の魅力に感嘆していたものだった。
 以上の人たちと僕が、創刊当時の出版部メンバーである。以後COMには、いったい何人の編集者がかかわってきたことか。大井正子さんから飯田耕一郎君に至るまで、軽く三〇人は越えているだろう、石井ちゃんの言によると、COM編集者は四期か五期に分れるそうである。その黎明編、第一期中の初期に当たる僕の思い出を、また綴り始めよう。
 アトムクラブ終刊号(S41年11月号)の新雑誌予告を見ると、どんな本を目指していたかわかる。後に議論を呼ぶ「まんがエリートのためのまんが専門誌」というキャッチフレーズがすでに入っているが、これは「かつての『漫画少年』のような新人登竜門の役割を果たしたい」という手塚先生の希望と、資本および編集人員等の制約から、既成の少年誌のような分厚い漫画雑誌を作れない編集部の、精一杯の自己主張を表現したもので、山崎氏の案だと思う。
 実際、少年誌の世界では、月刊誌に不振の兆しが出ており、精一杯のあがきとして、本誌はやたら厚く、付録も往時の過当競争をしのばせるような派手な別冊を何冊も付けていた。それでも20〜30万部単位で出ていたこれらに、たかだか四、五万部、二百ページ位の予算しかない小雑誌が割り込んで行かなくてはならないのだ。幸い、形体としては『ガロ』(青林堂)という良いお手本があった。ガロは、当時、その歴史の中でも最高揚期を迎えており、発行部数七万部と言われ「大学生が読んでいる漫画」と新聞ダネになり、唯物史観の教科書視され、代表作家の白土三平氏もその「カムイ伝」の後書きの中で、「現代の賃金形態による抽象的搾取支配の資本主義においても(中略)彼らは民衆に何を強いたか」(S42.6月号)と受けるなど、不思議な熱気に包まれていた。読者対象(我々は当時、新雑誌の読者層を小学高学年から中学生中心とみていた)が異なるとはいえ、ともに新人発掘をうたい、一人の作家を中心とした「まんがだけ」の月刊誌である。大いに意識させられたのは当然であった。
 桑田部長曰く「ガロは左寄りだ。新雑誌は中心の偏らないピラミッドを目指せ」。「ガロを見ていると、まんがは何かを主張するための手段として存在しているようだ。純粋にまんがのおもしろさ、楽しさを深め、芸術にとまでは言わないが、完成度を高めていける手伝いができるような雑誌にしたい」と僕。こうして何回かの編集会議がもたれ、当初手塚先生の新作と旧作、「悟空の大冒険」(このテレビタイトルも考えさせられた)、まんが道場とまんが界ニュースぐらいしか決まっていなかった内容が、次第に詰められてゆくCOM」という誌名を提案したのは手塚先生だった。ある夜、編集部員が案を持ち寄り、ああでもない、こうでもないとやっていると、テレビ局の帰りか何かで風のように現れた氏が、つかつかと黒板に歩み寄り「こんなのはどうですか」と白墨を寝かせてC・O・Mとと大書した。「コミックとコミュニケーションの略のつもりなんだけど」と。それまで徹夜の合間に手塚先生と何度か新雑誌の話をし、『漫画少年』再現の希望を知るにつけ、誌名もそのモジリからしか考えられなかった僕は、唖然とした。しかしその単純明快さはたちまち全員の心を捉え、その場で決定したのだった。
「手塚先生は『火の鳥』を描くだろう」と皆に僕が予言したのは、新雑誌発行が告げられた直後で、後に不思議がられたようだったが、これは手塚ファンなら誰でも考えつくことだ。それでも実際に「野口さん、ボクは『火の鳥』を描きたいんですが」どうでしょうと言われた時はうれしかった。「ぜひお願いします。みんなそのつもりでいますから」と答えたが、なに『漫画少年』のも『少女クラブ』のも、かつての「火の鳥」を読んだことがあるものは、ほかに一人もいなかった。
 創刊号に載せる旧作は、前号で触れた原稿整理の際、全ページの存在を確認していた「冒険狂時代」を使うことにした。エピローグだけを手塚先生が描き直し、印刷工程の都合で最初に入稿し、後は原画を傷つけないようにコピーを取り、それを切り貼りしたが、本の完成後これが一波乱を招く。(くわしくは『ぱふ』1979年5月号のCOM編集者座談会参照)
 永島慎二、石森章太郎両氏の連載起用は、スムーズに決まった。永島氏は虫プロ時代からアトムクラブと縁が深く、連作「漫画家残酷物語」は、既に多くのまんが家志望者のバイブルになりつつあったし、石森氏はこの年「続マンガ家入門」を著し、正編とともにまんが少年たちの評価を確立していた。両氏とも「まんが家になりたい」読者を、確実に持っていた作家なのである。
 永島氏には「漫画家残酷・・」の路線で、より広い読者層を見込めるよう青春残酷的なもので、読み切り連載を、とお願いした。石森氏の場合は、「原稿料が高いから6ページで考えろ」と山崎氏に言われ、困ったあげく昔『りぼん』や新漫画党の貸本単行本『えくぼ』で見た掌編「いやんポコ」を思い出した。
 昭和52年廣済堂出版から出た石森氏の「ぼくの漫画ぜんぶ」の中に16Pほど再録されているから、見た人も多いと思うが、このまんがは、一回わずか見開き二ページの、セリフがほとんどなく寡黙で時にコマやストーリーも無視した、抒情詩のような佳編である。手元に掲載誌はなかったが、「こんなまんがだ」と説明して編集会議で提案したところ、山崎氏の了解を得た。(『ひとみ』の編集長時代、『りぼん』で見たことがあったのかもしれない)
 こうした編集会議の決定をもとに、校條さんが原稿依頼に行ったのだが、午後一番で出たまま、夕方になっても帰ってこない。心配するうち、真っ暗になってからからニコニコしながら戻ってきて開口一番「いいタイトルができましたよ」という。「どんな?」と聞くと、「それが『てなことになるのさ』っていうんです」
『ええっ!」と愕然となった。「それ、もしかしたらギャグまんがじゃないの?」
 聞いてみると6ページの依頼だから当然ギャグだろうと、今まで石森さんと二人で『明星』や『平凡』付録の歌本をひっくり返し、歌詞の中からタイトルを見つけていたという。
「冗談じゃない」と山崎氏に電話をかけてもらい、二人して桜台の石森邸にかけつけた。こうして改めて決まったタイトルが、「章太郎のファンタジーワールド・ジュン」であった。(※当初は石森さんの息子さんの名前であるジョーだったが、最終的に山崎さんの息子さんの名前になった)
 出来上がった「ジュン」を見た時、「叙情詩を依頼したつもりだったけど、現代詩になっちゃった」と、山崎氏と顔を見合わせて笑ったのも懐かしい記憶だ。
 準備の時間がまったく無かったのと人出不足のため、記事ものは、尾崎秀樹氏の「まんが月評」も草森紳一氏の「主人公列伝」も、アトムクラブ形式のまま受け継いだ。唯一最大の違いは、それまでの「まんが道場」を「まんが予備校」とし、巻末にまんがマニアのためのページを設けてその中にくくり、総タイトルを「ぐら・こん」としたことである。
 命名者は当時「ジャングル大帝」アシスタント・プロデューサーであった森 柾(もり まさき)氏・・などと改めて書いても意味がない。経過だけを述べよう。創刊の時点からCOMでは新鋭のまんが家が欲しかった。で、昔貸本劇画誌『街』の読者だった僕が押したのが虫プロ在勤のもり・まさき氏と荒木伸吾氏であった。荒木氏は当時『少年』を狙っていたらしく断られたが、森氏は編集部に未発表のまんがを持ってきてくださった。僕にはいいと思われたその原稿は、結局山崎氏の気に入られず、それよりもマニアとして同人誌を主宰していた経験を生かして、読者のページの相談に乗ってもらおうということになった。
 こうして森氏宅を改めて訪問した僕と山崎氏の前に並べられたのが、中部日本漫画研究会の機関誌『ぐら・こん』(グランドコンパニオン=でっかい仲間たちよ集まれ)だった。
 COMはまんが家・真崎 守を世に出すチャンスを失ったかわりに、まんが評論家峠あかねと「ぐら・こん」を得たのである。(その後、氏の命名である「ぐら・こん」を、虫プロ商事名で断りなく商標登録してしまったと聞いた時は憤慨した)
 COM創刊号は1966年12月20日、世に出た。全206ページの内、手塚作品127ページを担当した僕の苦労話など書くこともあるまい。ただ、創刊号の印刷で「こんなみっともない本を出さないでください」と手塚先生に叱られた山崎編集長は、急に意欲を失ったのか、僕にこう言った。
「編集部で一番まんがを知っているのはお前だ。二号からは自分が編集長になったつもりでCOMを組み立ててみろ」と。


 さて。突然再録を始めた『コミックアゲイン』の「COMの神話」二回目では、創刊号の思い出の中で「僕の苦労話など書くこともあるまい」と、ブラックボックスに入れてしまったが、後期高齢者になって、「死ぬ前に書き残しておいてもいいかな」と思い直したので、最もショッキングだった出来事を記録しておくことにする。
 伴俊男氏の漫画「手塚治虫物語」や「手塚ファンmagazine」の取材では、身内意識もあってペラペラ喋ったことだが、言葉の内容がきつすぎるので、誰もがぼかしていてくれた部分だ。1966年12月その日の経過を、僕のHPの「手塚番千夜一夜」の引用から辿ってみよう。
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 金の話が嫌で、できれば漫画だけ描いていたい手塚先生は、ついに「雑用が多くてここでは仕事ができません」と、富士見台の自宅から、仕事場を中村橋の本屋の二階のアパートの一室に移し、漫画部(虫プロのアシスタント十人ほどの部署)全員引き連れて出て行ってしまった。がらんとした自宅の仕事部屋で、原稿が上がったと言う連絡を待つだけになった我々手塚番編集者は、なすこともなくソファーでだべったり、本を読んで時間をつぶすだけの日々だったが、どこも編集長や印刷所からの催促はきつく、誰も口に出せないイライラを抱えていた。スケジュール上は、ちょうど、僕が担当する『火の鳥』の順番の時のことだった。
(※創刊にあたっての桑田出版部長からの厳命で) 「これまでの郵送ファンクラブ雑誌『鉄腕アトムクラブ』と違い、『COM』は書店販売の普通の雑誌です。今後は社内原稿だからと言って順番を譲れません」と大見得切っている手前、順番が来ているのに原稿が上がって来る様子がないからといって、他誌の編集者に相談するわけにもいかない。(みんな僕のお手並み拝見という態度)朝から何度中村橋に電話してもお話中で、やっと通じたのが夕方だった。
「虫プロ漫画部です」
 チーフの鈴木勝利さんが出た。
「出版部の野口ですが。先生ちゃんと仕事してらっしゃいますか?」
「ええ、朝からお宅の原稿をやってますよ。どうしてですか」
「いえ、朝から電話してもずーっとお話中だったものですから」
 その時、脇から「なんですか」と、手塚先生の不機嫌そうな声が聞こえた。
 「野口さんが、先生は仕事しないで、ずっと電話してたんじゃないかって」
 うわ。しまった。と、思う間もなく、
「(受話器を)貸してください」と、先生が電話を取った。(※さあここからだ)
「てめえ、俺を誰だと思ってるんだ!俺は天下の手塚治虫だぞ!てめえみてえな若造に、とやかく指図されてたまるかっ!」
「だいたいてめえは」
 それからの先生のお叱りの言葉の数々を、とても文字に現すことはできない。(※というか頭真っ白で何も覚えていない)
僕は、ただ「はい」「はい」と、聞いている(※ふりをしている)だけだった。
 数分後、ガチャンと受話器を置く音が耳に轟いた後も、受話器を握ったまま立ちつくしていた。
「はい。わかりました。じゃ、よろしくお願いいたします」
 と、相手のいない電話に言った後、編集者用の電話を、力無くソファーの前のテーブルに置いた。
「どうだった?」
 ソファーに座った『少年』の辻川理氏が、読んでいた雑誌を膝に置き、心配そうに声をかける。
「どうもこうもないよ。だめだね。何もやってない」
 そして気を取り直して言った。
「どうせ今日は仕事にならない。明日は必ず上げてみせるから、今夜は僕がおごるからみんなで飲みに行こう。先に出て待ってるよ」
 編集者の控え室兼寝室である車庫脇の六畳間に戻り、コートを羽織って玄関から外に出た途端、どっと涙が溢れ出た。
 その晩、一人で手塚邸の六畳間に寝た僕は、翌朝中村橋のアパートに向った。
(※修飾された記憶では、自宅に戻って風呂で斎戒沐浴しているのだが・・・)
 編集仲間には昨夜、「明日は仕事場に乗り込む」と、宣言していた。
「もし来たら、以後その雑誌の仕事はしない。と、言われているのに、大丈夫か?」
 と、心配する声が多かったが、
「これ以上遅くなったら、みんなに迷惑がかかる。任せておいてくれ」と、また大見得を切った。
 アパートの部屋をノックすると、下村風介が開けて、驚いた顔をしている。
「先生。来ちゃいました!」下ちゃんの肩ごしに、奥に向かって声をかけた。
 部屋の奥で先生が、机に座ったまま振り向いて、おっしゃった。
「来ちゃいましたか」
「しょうがない。今からかかりますから、そこに座って待っていてください」
=====ここから『手塚ファンmagazine』(No.286)より=====
 そして、それからが早かった。
 僕が仕事場を訪ねてから描き始めたんですけれど、24ページを一気に仕上げてくれました。
ーー前日の一件に関して「昨日は悪かったね」とか、そういう会話もなしですか。
野口:アシスタント全員そのやりとりをそばで聞いていたから、みんな知ってるんだけど、何も言わないし、もちろん先生も触れない。立入禁止の仕事場に来てしまった邪魔者の編集者が畳の上に座っているのだけが異常という、そんな状況ですね。僕は朝の9時頃に着いたんですけど、それから夕方4時頃まで誰一人昼飯も食べずに描いていました。先生は先に一段落ついたあと畳に仰向けに寝て、目を閉じて仕上げを待っている。(※鈴木勝利さんがやらされていた一番手間がかかる)最後の一枚に仰向けに寝たまま目を通して「はい、マルです」と。つまりOKです、ということですね。そして原稿を揃えて手渡されたんです。僕が原稿を封筒に入れて「ありがとうございました」と言って帰ろうとしたら、先生がガバッと起き上がって、その場で正座し、両手をついて、「こちらこそ、ありがとうございました」とおっしゃったんですよ。あんな経験した編集者って、僕だけでしょうね。


「COMの神話」第三回(『コミックアゲイン』1979.7月号/みのり書房)

 今回で僕の受け持ち分が終わるハズだ。COM創刊当時は、個人的にも狂乱の時代で、手帳はまったく空白のままだし、22才という若さの記憶は、感情的な思い込みに汚染されていて、すぐ思考力を停止させる。これまでもずいぶん苦労させられたが、今回がいちばん悩まされそうだ。(山崎編集長とのけんか話も書かなけりゃいけない)あれから12年(※今はまたそれから40年)を経たとはいえ、青臭い性格はちっとも矯正されていない。お見苦しい点も多いと思うが、もう少々おつきあいのほど・・・。
 創刊二号の内部資料がひとつだけある。山崎氏が書いた「COM編集部から手塚先生に宛てた稟議書(!!)」だ。なんでこんなものが僕の手許に残っているのかさっぱり見当がつかないが、おもしろいので写してみる。
「稟議書  虫プロ商事株式会社  昭和41年12月23日提案  稟議者 COM編集部  件名 『COM』第2号スケジュールの件
 第2号は年末年始にかかり、創刊号にも増して苦しいスケジュールになってきました。印刷所は、30日から4日までの一週間休暇に入ります。そのためにも下記の通り進行をお願い致します。
   〈火の鳥〉        2+1C=8P 25日
           1C=16P ( 9〜24) 26日
           1C=16P (25〜40) 27日
           1C=8P (41〜48) 28日
   〈火の鳥前記〉(口述)表2(1P)25日
   〈火の鳥後記〉 1P 28日
   〈ボクのまんが作法〉3P 27日
   〈手塚治虫名作劇場〉計73P
 名作劇場は早急に内容を決定したいと思います。なお、その内容により73P程度に達しない場合は、53〜57P位にとどめて、ゲストコーナーとして16〜20P位のまんがを入れたいと思いますが、いかがでしょうか。その候補として1.望月三起也 2.山崎とおる のどちらかを起用したいと思っていますが、期間もありませんので、よろしくご検討ください。なお、宮脇心太郎氏は、先日ストーリーを見ましたが、若干編集部のねらいとも食い違いがありますので次回に回したいと思います。」
 なんじゃいこれは? まるで事実と違っているではないか。「火の鳥」は 2色1色8P+1色23Pの合計31Pしか実際には載ってないし、「ボクのまんが作法」なんて影も形もない。しかし、これが僕の考えた二号の原案の一部だったようだ。反故でないことは「妙な文書を作ったな」と思った(それまでこんな文書を手塚先生に届けたことは一度もなかった)記憶が残っていることで明らかだし、何よりも山崎編集長、桑田出版部長、それに受け取った側の島方マネージャー(後手塚プロ社長)の捺印が証明している。
 二号で僕は、山崎氏の命令により、本来編集長の権限である台割り(折ごとの頁順に作者や内容を記入したいわば雑誌の設計図)を作成した。意図したのが「文字ページの充実」であったから、盲蛇に怖じずでこんな案を出したのだろう。締切日は山崎氏が勝手に決めたもので、数誌が競合する状況を無視した無謀なものだった。(12月30日までに上がったのは、このうち「火の鳥」2色1色の8Pのみ。担当失格じゃあ)
 年内に印刷所に入った他の原稿は「悟空の大冒険」の4色扉(セル画)と、当然ながら永島慎二氏の表紙絵で、これは僕が頂きに伺った。少年の顔が劇画調なのと、背景の丘がワイセツな形に(見ようと思えば)見えるのが気になったが、いい絵だし、急いでいたので余計なことを言わずに引き上げた。その際、氏に「こないだ、遅く家に帰ったら、ソファーにコロコロした女子高生が寝てるじゃない。北海道から来たっていうんだけど、変わった漫画を描く子でね」と言われたのが、なんとなく頭にひっかかった。
 当初の予定では、表紙絵はずっと手塚・永島・石森三氏の競作で続くはずだった。永島氏を石森氏より先にしたのは当時としては大英断だが、読者に永島氏の存在をアピールする目的とともに、いわゆる手塚調児童まんがの絵(石森氏はまだそう見られていた)が続くことでイメージを早く固定化されてしまうのを恐れたためである。個人的感想だが、この措置は両氏に以後しばらくの間、よい意味でのライバル意識を発生させ、相次ぐ傑作と、誌面に緊張感を生んだように思う。
 ゲスト作品は、結局秋田書店等で少年漫画(!)を描いていた山崎亨氏に決まり、石井ちゃんが担当。並行して貸本界の作家数人に作品を見せてくれるよう依頼した。宮脇氏、下元克己氏それに日の丸文庫推薦の沼田清氏だが、手塚先生の48Pが間に合わなくなったことから、送られてきたばかりの沼田氏もゲストとして並ぶことになった。絵は上手だがストーリー設定に無理があり、コマ取りも単調に思われ、手を入れて頂きたかったが、京都住まいということで適わなかった。急な形での中央(?)デビューは、結局氏にとってプラスの効果を生まず、悔いが残っている。
 さて問題の「ぐら・こん」だが、僕には組織としてのイメージが欠落していたことを、ここで白状しておく。峠あかね氏が「まんがマニア必読のページ」という氏の誌面の中で、熱っぽく読者に呼びかけていても、僕は傍観するだけだった。峠氏と担当の石井ちゃんとが、組織づくりを考えている時、僕は自分の「まんが予備校」の構成しか考えていなかった。
 とにかく、投稿が皆無に近かった。創刊号でアトムクラブ時代のものを使い果たした上、平均点以下の作品しか集まっていない。ページは増えたというのに、投稿作を見れば見るほどページ作りの意欲が失せていくのである。
 手塚先生が遅れている上に、自分の原稿まで真っ白な僕に、とうとう山崎氏がじれて、「今夜は手塚番はいいから、帰って明朝までにやってこい!」と最後通告を出した。読者の投稿と割付用紙を抱え、社をとぼとぼと出ようとした時、永島氏の話を思い出し、ワラをも掴む思いで阿佐ヶ谷のお宅に伺った。
 見せて頂くまでに少しじらされたような気もするが、多分焦りの心が感じさせた錯覚だろう。くだんの女子高生の原稿を一読して、僕は「これだ!」と心の中で叫んだ。岡田史子作「太陽と骸骨のような少年」7Pと、「フライハイトと白い骨」数十ページを手に、その時どんな会話を永島氏と交わしたのか、よく覚えていない。彼女のプロフィール等聞いたような気もするが、心は原稿に吸い取られていた。「これは、まだ、誰も描いたことがないまんがだ!」と。
 高校時代、これに似た感動をもり・まさき氏のデビュー作「雨の白い平行線」と「暗い静かな夜」(ともに『街』25回入選作)で味わったことがあった。あの時感じたのは死への甘美な誘いだったが、ここには真の生への、強烈な欲求がある。ーー物語はよく理解できなかったが、テーマはそう語っているように思えた。
 なめらかな描線と豊かな表現力、そしてキャラクターから漂う魅力は、本物の才能をも予感させた。そして一枚の原稿の裏に走り書きされた「私は私の作品を漫画と言いたくありません。小画(この後に書かれていたフランス語らしきモノ失念)というような名を一人でつけています」という意味の短文を読んだ時、僕自身のまんがへの夢を、この意欲に託したいほどの情熱を感じたのだった。
「この情熱をCOM読者に伝えたい。読者を挑発し、反響を見てみたい」という思いに取り憑かれ、永島氏にお願いして原稿を自宅に持ち帰った。「絵は、フライハイトの方が華やかだが、もう一つの方がまとまっている。この7Pを見開きで全部紹介しよう。採点は、テーマ=100、ストーリー=0だ」歩きながら、また電車の中で広がってゆくイメージは、その晩急速に形となって定着した。『漫画少年』でも『街』でも『若人芸術』(※漫画と挿絵の通信教育誌)でもない、「COMまんが予備校」の形態が、やっと固まりつつあった。
 こうして、一睡もしないで完成した印刷用原稿を、翌朝出社と同時に、山崎編集長に提出した。黙って原稿に見入る山崎誌の前で、秘かな充足感に浸っていた僕は、やがてとてつもない大声の罵声ですっかり目を覚まされた。ビルに移ってから、同居する版権部に遠慮してかしばらく影を潜めていたソレの、突然の復活だった、みんなビックリして我々を見た。
「なんだこれは! 手を抜きやがって。昼までに全部やり直せ!」
「どこが手を抜いてるっていうんですか!」
 こっちも寝不足で機嫌が悪い。出版部だけの時は、全員山崎氏の気性を知っているから、怒鳴られても「また始まった」位で済ますことが多かったが、公衆の面前では引くに引けない。
「一人に二ページも使うとは何事だ。もっとごちゃごちゃ大勢入れろ!」周囲が気になったか、急に声を和らげて、
「なあ野口君よ。COMはまんが家になりたい子供たちのための雑誌なんだ。スペースの許す限り、一人でも多く載せてやるほうがいいと思わないか」
「しかし、まともな原稿は、この四点しかないんですよ。後は落書きみたいのばっかりで」
「青インクのだって、前はトレスして載せてやったじゃないか。ヘタなのが載れば、誰だって描く気になる」
「まんが家になりたい子供たちのための雑誌だからこそ、良い作品はそれなりに扱うところを見せるべきでしょう。このまんがは、自分たちの仲間が、これだけのものを描いたんだということで、読者を啓発すると思います。全ページ載せなきゃ意味のないまんがなんです」
 てなやりとりがしばらく続いた後、
「どこがいいのか俺にはわからん。編集長命令だ。やり直せ!」
「いやです。どうしてもというんなら、辞めますから自分でやってください!」
 すでに辞表は二度出している。これが効いたのか山崎氏もおとなしくなって、結局「時間がないから今回はそのまま出稿してよし。次からはもっと早くやって、完成させる前に必ず俺に見せろ」ということになった。
 富士見台の手塚邸に向かいながらも、なかなか腹の虫がおさまらない。「あれが芥川賞を狙っていると言った男のセリフか。ああいう認識の下で、まんが専門誌を作らされるのか」と思ったら、ますます腹が立ってきた。途中で喫茶店に寄り、三度目の辞表を書いたらやっとすっきりしたので、以後はこれを抱えたまま仕事をすることにした。
(さあ大変だ。第二号だけで、また一回分使ってしまった。「これで解放される」と、ほっとしながら描き始めたのに。鈴木編集長さ〜ん、もう一回分くれませんか〜。第三号が残っちゃったよ〜)


「COMの神話」第四回(『コミックアゲイン』1979.8月号/みのり書房)

 本当にこれが最後です。読者の皆さん、四ヶ月間ご苦労さん。本誌鈴木編集長は「全員終わったら単行本にするんだ」なんて張り切っているけど、まとまるのかねえ。トップがこれじゃ、売れないだろうなあ。『アゲイン』読むと、関係者の僕ですらCOM、COMってうるさく感じるしなあ。
 とまれ創刊三号目。二号に続いて台割りを作って山崎COM編集長に持って行った僕は、こてんこてんにやられちゃったのだよ。僕の作った台割りを破り捨てられて、「いつまで編集長のつもりでいるんだ。編集長は俺だ。余計なことをするな」とね。
 でも、用意の辞表を受けた後は、なんと思ってか、けっこう僕のやりたいことをやらせてくれた。記事ものも作らせてくれたし・・。
 もともと前身の『鉄腕アトムクラブ』という雑誌は、特集記事を柱にしていた雑誌だった。「タイム・マシン(75/6)」「宇宙(7)」「ワンダー・スリー(9)」「ジャングル大帝(10)」「SF入門(11)」等々。ミニコミに毛の生えたような小雑誌の特集記事が、当時数十万部の少年各誌からも注目され、『少年』の谷口編集長から褒められたと、山崎さんがニコニコしたり、「きみもまんが家になれる(76/8)」で僕が作ったページは、S社の少女雑誌に盗用されて詫び状(?)をとったりしたくらい気を吐いていたのだ。
「まんがに関する記事ページの充実」は、だから、どうしてもやりたいことだった。ところが、現在考えると不思議なくらい、当時は漫画論の例に乏しく、作家も少なかった。
『話の特集』から探し出した草森紳一氏、大衆文学評論家の尾崎秀樹氏のお二人だけが、lかろうじて編集部がコネクションを得ていた漫画論者だった。草森氏には、それまでアトムクラブの続きで「戦後まんが主人公列伝」という記事を書いて頂いていたのだが、この際そっちは各誌の編集者に、もっと生の声で語って頂くことにし、氏にはもっと本格的な漫画家論に取り組んで頂くことにした。何度か打ち合わせをした後、当時一番気になる作家として最初に取り上げたのが「まんが家研究ー赤塚不二夫の巻ーおそ松くんの人気の秘密」だった。
 尾崎秀樹氏の場合は、もともと専門が大衆文学畑のため、まんが全般に対する理解はお持ちだが、作品論的な深読みは、あまりなされない。で、子供読者との座談会の司会をお願いしていたのだが、より強いインパクトを与える読み物を、と思って『ガロ』から少年誌まで編集者を網羅した座談会を企画した。(この時『少年キング』を代表して来られたのが、現在『アゲイン』編集長の鈴木清澄氏である)とにかく、まんがについて愛情こもった読み物が、一行でも、一頁でも、より多く、切実に欲しかった。  この頃、ようやく一、二号の反響が現れてきた。好意的な反響が多かったが、紙面で使えたり、びっくりしたりで、印象深かったことが三つある。
 一つは、板橋の大学生伊谷君が寄せてくれた「鉄腕アトム論」である。原稿用紙10枚の力作で、内容的には「もう一歩」の感もあったが、読者によるまんが評論の可能性を開いてくれたものとして、石井氏に頼んで「ぐら・こん」の中に掲載してもらった。
 第二は、広島県だったかの読者から来たお便りで、COMへの期待が述べられた後、『漫画少年』全巻を所有しており、「役に立つなら無償で送る」という内容だった。僕は興奮して「タダでもらうわけにはいかないが、絶対手に入れておくべきだ」と主張したのだが、結局山崎編集長に鼻の先で笑われて終わってしまった。その後、特集等のたびに永田竹丸さんにお借りして使っているのを知るにつけ、この時手に入れておけば・・と、悔やまれるのだが、編集長は、辞表を出して顔に泥を塗られた人間に主張されたために、手配しなかったのだろうか。
 第三が、筑摩書房からの買収申し入れである。辞めることが決定していた僕には、誰も詳しい経緯を話してくれなかったが、編集部は一時、その話でもちきりであった。「編集部ごとCOMを、筑摩書房が買い取りたいと言ってきた」という。「ばかにするな」「せっかくここまでやってきたのだ。身売りなどできるか」という声が圧倒的だった。しかし反面、山崎さんはじめ編集部のみんなの顔は、誇らしげだった。ともかくCOMは、緒戦で認められたのだ。
(当時『ガロ』も、小学館が買収を企てていたという。漫画界全体が、来るべき青年誌時代を控えて、大きな節目にあった)
「ぐら・こん(まんが予備校」には、ガンケ・オンム(内藤祐生)君、木村知生君という腕達者な中学生が登場した。漫画の魅力の第一を画力におく僕は、二人の早熟な才能に脅威さえ感じた。先号で「手抜き」と言われたため、三号の「まんが予備校」は、コマごとに拡大率を変えるなど構成に多少凝ってみた。作品に点数をつけるということは、ある意味で「レッテル貼り」につながり、危険ではあるが「励み」と「選者の視点」を明らかにする必要を感じ、あえて継続した。ついでに、「課題による一コマないし四コマまんが=ホップ」「原作による短編まんが=ステップ」「オリジナルのまんが=ジャンプ」の三段階構成を考え、発表した。このあたりは、この号が出ると同時に退職することが決まっている僕に、山崎さんも好きなようにやらせてくれた。(調子に乗って、担当ページの隅っこに、「まんが家技法のマル秘公開」なんて欄を作って、水木しげる氏の「テンテンを打ってみよう」を第一回として載せたりもした)
 僕の担当ではない部分だが、掲載まんがも、この号は安定した高水準を見せている。永島氏「青春裁判」、石森氏「ジュン・時の馬」、みやわき心太郎氏「つくしんぼ」は、ともに各氏のこの時期の代表作と言っていい完成作だし、出崎統氏の「悟空の大冒険」も、この号では硬さが取れ、意表を突くまんがのおもしろさを見せてくれている。(「火の鳥」は、僕が辞めた後の四号から調子が上がる。残念だが認めざるを得ない)
(※第二号で最も読者の評判を呼んだのは、岡田史子だった。校條さんによると「まんが予備校」内のたった2ページが、手塚・永島・石森三氏の連載を抑えて、ダントツ人気だったそうだ。ザマミロ)
 辞職を決めた上に担当の手を広げたため、名作劇場は手のかからない「フィルムは生きている」にした。これなら僕がいなくなっても続けられる。
 編集の合間、山崎さんから僕は妙な仕事を言いつけられた。
「自分勝手に辞めるのだから、後がまぐらい責任を持て。新聞広告で編集部員を募集するから、試験問題はお前が作れ」というのだ。どこの世界に退職者に入社試験問題を作らせる会社があるだろうと思ったが、おもしろいのでやってみることにした。(僕が入社した時の問題は、山崎さんが作ったそうだ。五十何人か受けたうちの二番目だったが、まんがに関する論文の得点で選ばれたと聞いたことがある)
 新聞広告で何人応募があったのか知らないが、書類選考を通った二、三十人の人々が、こうして僕の作った一般常識問題をやらされた。
 実は、現在手元に、この時の採点表がある。論文・能率・常識・校正・レイアウト(能率は山崎氏、校正・レイアウトは石井氏担当。なにしろ採用後すぐ使える人が前提だった)の五科目各百点満点の得点と、面接での希望給与額、経験の有無などが、受験者ごとに記入してある。その後、漫画界で知った人も数人おり、興味深いのだが、なにぶんプライバシーに属すること。とても公表できない。ただ、これだけは言っておこう。この中から一人だけ選ばれて入社したY.U君は、決して飛び抜けて成績が良かったわけではなかった。どちらかというと「やや線が弱い。常識時平均的現代青年(山崎氏の短評)」だった。
 ダントツだった「できすぎる(同前)」O氏も、「印刷に詳しい(同)」S氏も、「漫画に意欲ある(同)」N氏も、「すぐにでも使える(同)」M氏も、みんな得点が上だったにもかかわらず採用されなかった。「なぜですか」と気色ばんで聞いた僕に、山崎氏は簡単に答えた。「もう野口君(のような人間)は、いらないんだよ」と。
 僕の作った問題で高得点をとったこれらの人々に、僕は謝まらなければいけないのかもしれない。
 それとも謝るべきだった相手は、受かったU君だろうか。「線の弱い」彼は、その後わずかな期間在籍しただけで、今はこの世にいない。(※山崎さんにいじめられて自殺してしまったと聞いた。嗚呼)


 さて、COM三号の編集が始まるあたりで山崎編集長に辞表を出したわけだが、手塚先生に報告した覚えはない。だいたい、こちらから手塚先生に話しかけるということは、まったくなかった。つまり対話というものが存在しないのだ。
 手塚番で付いていて、三号の時に、先生に話しかけられて覚えているのは、「タネが危ない」でも書いたが、「野口さん、この主人公、殺しちゃってもいいですか?」ぐらいだ。担当する「火の鳥」は始まったばかりだが、主人公ナギの周りの人間が、どんどん殺されていく。最初は『漫画少年』版や『少女クラブ』版のように、火の鳥の生き血を飲んだ主人公が、不死の体になって歴史を旅する話になると思っていたから、主人公まで「殺しちゃってもいいですか」という言葉には心底驚いた。「うーん、そりゃ困ります」というのが精一杯で、二の句が継げない。すると手塚先生も、「そうですよねえ」と言って、またカリカリと原稿用紙にペンを走らせ、卑弥呼が猿田彦に「そのこせがれを殺せ」と命令する場面で、三号の「火の鳥」は終わっている。
 創刊号になかなかとりかかれなかったのも、「火の鳥」という物語全体の構成が、まだ決まっていなかったのだろう。とりあえず描き始めてはみたものの、どんな展開にするか、五里霧中のまま進行していたのだろうと思う。自腹で「図説日本の歴史」という大判の上製本を買って届けると、「あ、これはいいですね」と受け取ってくれ、以後の扉絵は、多くこの図版の写真を元にして描かれたが、当時ベストセラーになっていた宮崎康平の「まぼろしの邪馬台国」を「参考までに」と、持っていったら、「二度と余計なことをしないでください」と、ポーンと投げ返されてしまった。
 ともあれ三号の編集をほぼ終え、後がまも決まったところで、僕は虫プロ商事出版部を退社した。
 山崎氏による四号の編集後記には「編集部のひとり野口勲君が退社した。この雑誌の創刊に共に心を燃やし、苦楽を頒ちあってきた同志である。まんがの、実に好きな男であった。父君の懇請により家業のタネ屋をつぐそうな。多幸を祈る。」と書かれていた。


 こうして1967年3月をもって、23歳の僕は、家業のタネ屋に入るはずだったのだが、辞めて間もなく、『少年』編集部の辻川氏に連れられて、光文社の細木さんという初老の社員の方が店を訪ねられ、「今度光文社から手塚治虫全集を出すことになった。ついては君に編集をしてもらいたい。これは、手塚先生のご希望と思ってもらってけっこうだ。せっかく家に戻ってくれて喜んでいるだろうお父上に了解をいただくために、今日はこうして参上した」と。
 当時としては豪華本である一冊千円の上製本漫画全集を、月に三冊ずつ刊行していくという。
「野口君は、中退していなければ、今年大学卒業のはずだ。光文社の今年度新入社員の初任給は38,000円だから、月40,000円払う。やってくれないか」ということなので、父に断って、この仕事を受けることにした。「手塚先生のご希望と思ってもらってけっこう」というのは、先生のご希望だが、それを言うと、先生が僕に借りを作ることになるので、「僕が希望したということは絶対に言わないでください」と言ったから・・というのは、これまで二年間の手塚番経験ですぐわかる。挨拶もなしに退社しちゃったのだから、手塚ファンとしては「ここは断れないよなあ」・・といったところだった。
 池袋の巣鴨拘置所前のアパートを借り、江戸川橋の光文社別館(『女性自身』ライターのタコ部屋)に一室をもらって通った。手塚プロ側の原稿係として、出版部の入社試験を受けた中の一人、藤井信行君が新たに雇われたので、原稿運搬やネームの貼り直しなどの細かい作業は、彼にやってもらった。僕の仕事は、1巻分のページ数合わせと、表紙絵の依頼と受け取りぐらいだから、COMに比べたら遊んでいるようなものだ。
「野口さん、表紙の絵はどんな感じがいいですか?」と手塚先生が聞くから、「『銀河少年』みたいな挿絵調の絵がいいですね」と言ったら、「今のスタッフじゃあの色塗りはできません」と断られたり、「バックは白か黒を基調にした上品な装丁にしたい」と言って、先生がそれに乗って描いたのに、光文社の専属レイアウトマンが、かつて担当して売れた「カッパコミックス」同様、赤青黄の地に白い星の帯で囲んだど派手な装丁にして、社内会議も通ってしまったから、二人して嘆いたりした。
 定時に終わって編集者が集まる飲み屋に行くと、すでに飲み始めていた細木さんが、光文社の同僚に「手塚治虫の高弟だ」と僕を紹介したりする。いい気になって池袋や新宿を飲み歩いていたら、ある日手塚先生に、「野口さん、池袋や新宿なんて場末で飲んでちゃいけません。飲むんだったら、銀座で飲みなさい。一流の店には一流の客が集まります。一流の人間と付き合わないと、一流にはなれません」と言われた。そんな無茶な。月四万の給料で、銀座で飲めるわけないでしょう。と、鼻白んだ。
(※その後、大学時代の友人M君が、教師の推薦で、白鳳社という小さな文芸書出版社に入ったので遊びに行き、社長に出版物の感想や企画中の俳句書シリーズは「自選自解」がいいと思うなどと話していたら、「飲みに行こう」と銀座の小さなバーへ誘われた。飲みながら「夏目漱石の弟子を何人知ってる?」と聞かれたので、「芥川龍之介、久米正雄、森田草平、寺田寅彦、内田百けん、小宮豊隆・・・」と挙げていたら、奥の部屋からトイレに立った紳士が近寄って「君は小宮豊隆を知っているのか」と言うから「読んだことはありませんが、名前だけは」と言うと、「小宮豊隆は俺の親父だ」と言って、また奥の部屋へ引っ込んだ。白鳳社の社長の顔を見ると、ニコニコしている。「君たちが銀座で飲みたくなったら、俺のツケで飲んでいいぞ」と言ってくれたので、その後M君と何回か使わせてもらった。「ばんぶう」というその店も、銀座の文壇バーの一軒だったようだ)
 さて1967年12月クリスマス商戦から刊行開始と決まり、「来るべき世界」や「西遊記」など第一回配本分の原稿も揃い、部数を決めて印刷所に送るばかりになった秋のある日、『週刊新潮』に「鉄腕アトムの虫プロが倒産の危機!」という大きなスクープ記事が出た。それを見た光文社の神吉晴夫社長の鶴の一声で、豪華版手塚治虫全集は「企画延期。編集部解散」となってしまった。編集部解散といったって、編集部は僕一人。つまり、僕はお払い箱ということだ。それまで集めた原稿をいくつもの袋に入れ、手塚邸の先生の元に返しに行った。光文社から給料をもらっていた身だから、「申し訳ありませんでした」と謝ったら、「野口さん、僕のせいじゃありませんからね」という。(「あたりまえです」と心でつぶやき)「では、失礼します」とドアを開けて出ようとしたら、「野口さん。漫画を描いてください」と、言われた。漫画を描く才能も、根気もないことは中学時代からわかっているから、漫画家になる気はない。これからはタネ屋として生き甲斐を探していくことになるんだろうな・・・と思っていたから、手塚先生にはなんとも答えず、ただ深々と一礼して、ドアを開けた。(※うーん。このくだりは、13年前に書いた「手塚番千夜一夜−付・思い出フラッシュバック−」の最後の部分のほうがいいなぁ)


 1967年の年末から家業のタネ屋に入った僕は、また「みやま小かぶ」の母本選抜からタネ採りの手伝いを始めた。高校時代まで手伝っていたから、手は自然に動く。かつて川越の斎藤農園、所沢の古谷採種園と共同事業で行なっていた頃は、飯能周辺の山上の集落六ヶ所の採種農家各10軒ほどにカブの原種を渡し、生育したカブを全部引き抜いて並べ、良い形のものを選別して、また同じ畑に植え付けてもらい、春に開花させて、年間約2,000リットル程度採種していたのだが、みやま採種組合を解散して、三店それぞれが二ヶ所ずつ採種地を分けた結果、うちの生産量は三分の一以下になった。それでも、F1時代になって、固定種の需要が減ったので、採れたタネが余ってしまう。いきおい買取価格も低いままで、採種農家の生産意欲も低下していく。おまけに、三店それぞれの父子総出で選別していた時は、選別力にも多様性が働き、草勢も維持できていたのだが、父に教わった僕の眼力は父と同じだったと見えて、同じような形ばかり選んでしまい、草勢がどんどん弱くなり、一株あたりの採種量が年ごとに減っていき、お金にならない農家は、一人二人と脱落していく。古谷さんは、「カブのF1なんてできるものか。固定種に決まっている」と、選んだ二ヶ所の採種農家にF1のタネを渡し、そこから改めて選抜淘汰する道を選んだが、案の定失敗して、採種から手を引いてしまう。斎藤さんはご主人が亡くなられた後、タキイ種苗のタネだけを売る販売店になってから、川越一の繁華街にあった店を路地裏に移し、結局閉店してしまった。(タキイ種苗の取引条件が、年間三千万円仕入れることだったそうで、ノルマを達成するために、タネだけでなく肥料や農業資材も全商品をタキイから仕入れる必要があり、顧客の需要に応えられなくなった結果と言える。またホームセンターに同じタキイの商品がより安く並んで、価格面でも太刀打ちできなくなる。こうして大手はどんどん大きくなり、地方の商店が消えていくのは、タネ屋ばかりでなく、本屋も、時計屋も、あらゆる商店街のあらゆる商店で引き起こされた流通革命という名の戦争だった)
  F1品種というタネの革命は、まずトマトやキュウリなど、果菜類と呼ばれる実のなる野菜のタネで始まった。F1は、「一代雑種」という別名通り雑種であるから、母親役の植物のオシベや雄花を取り除き、別品種のオシベや雄花の花粉をつけることで生まれる。この「除雄」という技術そのものは大正時代の日本で完成していたが、戦前にはほとんど広まらなかった。F1が広まったのは、昭和30年代後半からの高度経済成長の時代からである。日本中の農村の若者たちが集団就職で大都会の工業社会に集められ、農村部で食料生産に携わる農民の数が少なくなった結果、効率よく作物を生産できるタネの需要が高まった。また流通革命により、日本中の産地から東京や大阪などの都会に一年中野菜が送られるようになると、消費者は、周年同じ野菜を求めるようになる。こうしてビニールハウスなどの施設園芸で、一年中同じ野菜を生産する「産地」が形成される。産地は、生産量が少なくて一番高く売れる端境期の市場を目指す。こうしてF1のタネは、まず無理な時期に収穫でき、端境期をなくす安定供給を目的として広まった。1965年には、日本中で販売されるトマトのタネの80%がF1になったという。農業地帯でない飯能の、うちのお客は家庭菜園であるから、F1品種は。まず野菜苗のタネとして普及していく。固定種は多様性があるから、当たり外れがある。F1の苗は、遺伝的にどれも同じだから、当たり外れがない。F1のタネは高価だが、このタネを苗作りが得意な農家に渡し、できた苗を買い取って、店に並べることから、うちにもF1品種が入ってきた。ただ、果菜類以外のホウレンソウやコマツナなどの葉物や、ダイコン、カブなどの根菜類は、ずっと固定種ばかりだった。それは、主として高齢者の顧客が、F1より固定種の方が味が良いと言っていたからであった。


 1968年3月、「F1の作り方を勉強してこい」という父の命令で、僕は千葉県のみかど育種農場鎌取農場の研修生になった。
 研修生というと聞こえはいいが、実態は試作農場の無賃労働者である。同期の研修生は、青森の中学卒業生二人と、山形と千葉の高校卒業生一人ずつが農家の長男で、F1野菜の栽培実習生。タネ屋の息子は、千葉の高校卒業生一人と、奈良の東京農大生一人、それに韓国から来た僕より年上の大人が三人だった。この8人が農場内にある茅葺古民家の二階に布団を並べて寝泊まりし、農場に隣接した社宅に住む森山さんという社員と、事務所の夜警室に寝泊まりしていた見習い社員の東京農大生の指示のもと、毎日の畑作業に従事する。
 朝5時に起こされて、賄いのおばあさんが炊いたご飯と味噌汁、それに沢庵だけの朝食を食べ、森山さんの命令一下、各自備え付けの鍬を持って畑に向かう。第一日目の作業は、畑の土壌消毒だった。鍬は畑の隅に並べて置き、代わりに土壌燻蒸器を持たされた。中にD-Dという燻蒸剤をたっぷり入れた燻蒸器は、T字型のハンドルを両手で持ってもずっしり重い。研修生たちは肩が触れんばかりの近さで一列に並び、ヨーイドンで燻蒸器の先端を土に挿し、ハンドルの付け根にあるボタンを手で叩く。すると土の中に燻蒸剤が四方に飛び出す。燻蒸器を引き抜いて、空いている穴を地下足袋の足で踏んで穴を塞ぐ。左足、右足、また左足と、歩幅に合わせて約15cm間隔ぐらいでこれを繰り返す。一反(300坪)の畑の土すべてを、燻蒸剤のガスで土壌消毒し、土の中の土壌細菌などの微生物はもとより、虫の卵から雑草の種まで、畑の中の生き物という生き物を皆殺しにして、無菌の土にするのだ。ガスが大気中に逃げないよう挿した穴は足で踏んで塞いでいるが、土中全体に燻蒸剤を行き渡らせるために、畑全体をポリエチレンのシートで覆って数日置く。そしてガスが行き渡ったらシートを外し、ブルドーザーで土をひっくり返してガス抜きをする。ガスが抜けたところで作物ごとに決められた量の化学肥料を施し、鍬を使って高畝を作ってポリマルチを張り、穴を開けてF1野菜のタネを蒔くか、苗を植え付ける。これが野菜の産地で毎年行なわれている作付け作業だった。産地では毎年同じ野菜を栽培しているから、連作障害が起きないよう、また病原菌が残らないよう、タネ蒔きの前に土を無菌の状態に更新する必要があるのだ。F1のタネを周年単位で一番使っているのは野菜の産地だから、産地の畑と同じ条件の畑を作って、栽培試験をし、産地に向いた品種を作り出す必要があるというわけだ。
 前年まで編集屋という呑んだくれ生活を送っていた僕は、子供の頃から農家の手伝いをしていた中卒や高卒の若者たちに敵うわけもなく、大きく引き離されて肩で息をしながら、これが今の農業なのか。こんな農業に向いたタネだけがこれから必要とされているのか・・・と、研修第一日目から呆然としていた。
 教科書として松尾孝嶺著『育種学』というアカデミックな本が配られていたが、座学での講義は何もなかった。どうやら自分で本を読んで自学自習しろということのようだ。そこで夜ときどき読んでみたが、用語の説明と遺伝子変化の概念図ばかりで具体例に乏しく、生き物としての植物や野菜の姿がまったく見えてこない。用語を覚えて課題に対する答案を書くための教科書でしかない。学問の世界なんてみんなこんなもんだ。
 農場内にたくさんの網室(防虫網を張ったビニールハウス)が並んでいて、どれも中には菜の花が咲いている。その中に三、四人ずつ若い女性が入って、何やらこちょこちょと手仕事をしている。何をしているのかと思っていたら、やがてつぼみ受粉をしているのだとわかってきた。カブもダイコンもハクサイも、日本の伝統野菜の大半はアブラナ科植物だが、このアブラナ科の植物というのは、自家不和合性といって、成熟した菜の花は自分の花粉を嫌がる力が強く、自分の花粉では受精しない。ただ、未成熟な菜の花のめしべでは、この自分の花粉を認識する力が働かず、自分の花粉でタネができてしまう。だから未熟な菜の花のつぼみを開いて、自分のおしべの花粉をつけると、おしべの花粉もめしべの胚も、同じ遺伝子のまさにクローンのようなタネが採れる。このタネを畑に蒔いて開花させると、成熟した菜の花は同じ遺伝子の花粉を認識して、タネをつけない。隣に同じようにつぼみ受粉で作った別のアブラナ科野菜を蒔いておくと、別の野菜との雑種のタネが採れる。アブラナ科野菜のF1(一代雑種)のタネは、こうして作るのだということがわかってきた。F1の片親一種類のタネを採るだけで、目が良くて手先の器用な日本人の若い女性が大勢必要なのだ。10品種のF1野菜のタネを育てるだけで、最低20種類のタネが一粒ずつ必要で、パートの若い女性も最低20人は必要ということになる。これは、ウチみたいな街のタネ屋が手を出せる世界ではないということがわかってきた。
 たった一粒のタネをつぼみ受粉でクローン化し、無限に増やして、クローン同士を掛け合わせて雑種にした販売種子を毎年生み出す技術の時代になったことがわかってみると、固定種のみやま小かぶのタネを毎年100リットル単位で買ってくれていた種苗会社が、「今年は20ミリリットルでいい」という理由も納得できた。最終的に、選ばれた一粒のタネさえあればいいわけだから、多様性の最大公約数ともいえる固定種のタネを必要とする時代は、完全に終わったと思わざるを得ない。
 こうして半年間の研修生生活で酒も飲めず、健康になった僕は、飯能に戻ってから店の活路を園芸に求め、花市場に通って鉢花や花壇苗の競り市に参加するようになった。


 と、農業研修生時代はさりげなくとばしてしまうつもりだったのだが、自分用の備忘録なのだから、この際、辞めた時の経緯も書いておこう。
 五ヶ月ほど過ぎた真夏の夜のことだ。夕食を終え、風呂にも入って、古民家の二階の座敷でのんびりと過ごしていた我々を、夕食後卓球か何かしていたらしい青森の少年たちが「研修生全員集会所に集まれって」と、呼びに来た。何もわからないまま集会所に行くと、韓国の三人も含めた全員が直立不動で並べられ、森山さんのお説教が始まった。
開口一番「お前たちは泥棒だ!」と、言う。「タダで宿舎も食事も与え、農業を教えてやっているのに、お前たちは泥棒をした。犯人は前へ出ろ!」何が何だかわからないでいたが、聞いているうちに少しわかってきた。集会所にはテーブルが並べられていて、そこに昼間収穫されたメロンがアルミの皿に並べられていたのだが、それは、翌日正社員が試食して新品種を選ぶための大事な試作品種らしい。(我々単純労働者はそんな大事なハウスには立入禁止だから、どこに栽培されていたのかもわからないが)その大事なメロンが食い散らかされて、床に皮が散らばっていたののが、それは我々研修生の仕業に違いない。と、いうわけだ。ただ農場は広く、入り口の駐車場や事務所棟以外は、フェンスや柵などで囲っていない。おまけに集会所の隣には民間の貸家が並んでいて、その一軒に住んでいる森山さんは、朝夕開けっ放しの通用口から、集会所の横を通って通勤している。つまり、外部の人間が入ろうと思えば、いつでも簡単に入ってこられる場所にあり、常時鍵もかかっていない建物なのだ。
 しかし農場責任者である森山邦夫(山崎邦保編集長に似た名前で、すぐ怒鳴るのもよく似ていた)さんは、そんな外部犯行の可能性は一切無視して、「お前たちはみんな泥棒だ。仕事を教えてやっている飼い犬に手を噛まれた」といって、怒鳴るばかりだ。
 犯人が誰も名乗りを上げないので、1時間ほど怒鳴り続けていた森山さんは「続きは明日だ、部屋へ戻れ」と言った。たぶん宿直室で毎晩呑んだくれている見習い社員の農大生と一緒に、明日の試食会に備えて片付けることにしたのだろう。
古民家二階の部屋に戻った研修生たちは、憤懣やるかたなく、大騒ぎとなった。集会所のそばで卓球をしていたらしい少年二人にまず尋ねた。「本当にメロンを食べてないの?」「食べてませんよ。僕らだって、食べていいものといけないものぐらいわかります!」と、憤然としている。そりゃそうだろう。アルミ皿の一枚ずつには、乗っているメロンが何と何を掛け合わせたものか、トマトやピーマンのハウス作業の際よく見るような記号がしっかり表記されている。「続きは明日だっていわれたけれど、泥棒と言われて、もう仕事なんかしたくない」「朝5時に起こしに来ても、みんなで寝ていようじゃないか」「ストライキだ。ストライキしよう」
「野口さん、どうしたらいいと思います?」大学生のM君はまだ世田谷の東京農大から帰っていないから、どうしても日本人の中では一番年上の僕の周りに集まってくる。農場に半年近くいると、たまに農場にやってくる若手の正社員と顔なじみになったりしているから、「賄いのおばあさんも毎日泣かされているし、森山さんには反省してもらう必要があるな。明日会社が始まったら本社に行って、正社員の○君に相談してみよう」ということになった。
 翌朝起こしに来た見習い社員が慌てるのを尻目に、一汁一菜の朝食を終えた我々日本人研修生一同は、バスに乗って千葉市の本社を目指した。(韓国人たち三人は、国際問題になってはいけないので、農場に残った)
 正社員の○君を公衆電話で呼び出すと「農場の騒動は聞いてるよ。越部専務が相談に乗ってくれるだろう。会社内でゴタゴタするのはまずいから、定時までどこかで時間をつぶしていてくれ。終業時間になったら、越部さんの自宅に案内する」ということになった。
 株式会社みかど育種農場という種苗会社は、第二次世界大戦中は「帝国種苗殖産」という国策で合併された日本一大きな種苗会社だった。戦後分割されて、戦前の帝国種苗がみかど育種となったのだが、当時の社長は船串さんという人で、越部さんは江戸時代から続く滝野川の三軒屋の一軒という日本のタネ屋の元祖ともいうべき血筋だ。その越部平八郎氏が営業担当専務、技術(育種)部門の責任者の森田さんが名目上の農場長という立場で、この三人とその子供が交代で社長を務めることになっているという三頭体制だった。森山さんに叛旗を翻すことによって森田さんの顔を潰さないためには、船串社長に直談判するより、営業社員が間に入って越部さんが話を聞く形がいいだろうという判断が働いたものと思われる。(と同時に、越部さんは自宅を解放して若手社員対象に英語の勉強会を開催しており、派閥形成のためとはいえ、人望が高かった)
定時までどうやって時間を潰していたのか全く覚えていないが、我々六人(だけだっけ?なんか少ない気もする)は、正社員の○君の案内で越部さんの自宅に行った。若い研修生たちが口々に森山さんの横暴を語るのを聞いていた越部さんは、時々○君にそれぞれの出来事が事実かどうかを確認し、「よくわかった。明日君たちが納得するように会議を開いて、会社としての決定を出す。君たちの悪いようにしない」と言った。僕はこの間、ほとんど何も喋らず、この物分かりの良すぎる重役の落ち着いた態度に、ただ感動していた。
 翌日午後、農場の会議室に集められた我々日本人研修生たちは、初めて見る顔が多い社員たちと席に着いた。会議室には、森山さんも、農場で働く社員は、誰もいなかった。会議とは名ばかりで、進行は、越部専務の一人舞台だった。
「君たち研修生は、ここで日本農業の最先端技術を学んでいる。一年なり二年なりの研修を終えたのちは、それぞれ故郷に帰り、故郷の農業を指導する指導者として、日本の農業に貢献する役目が待っている。しっかり勉強することが君たちの今の任務だ。その勉強を応援するために、会社は宿舎を提供し、食事を提供し、休みの日には観光旅行にも連れて行って、君たちのレクリェーションや教養を高めることにも努力している」一ヶ月前、トラックに詰め込まれて、ホロから絶対に顔を出さないよう注意されて行った成田山見学のことを言っているらしい。
「いま君たちがしなくてはならないことは、一にも二にも勉強だ。進んだ栽培技術を学び、体で感じ取ることだ。年が少しばかり上だからと言って、怠け者の扇動に乗って、サボタージュすることではないはずだ」おいおい、これって俺のことを言っているのか?なるほど、これが資本家が労働者のストライキを潰す常套手段、組織の分断なのか。俺はまとめ役ではあったけれど、扇動者ではなかったはずだが。うーん。
 演説は最後に「君たちのために、明日からは週一日の休日を与えよう。相談して、交代で週一日は休んでもいいということだ。ただこの休みは、遊ぶために与えるのではない。その休みを使ってより深く勉強し、故郷のお父さんやお母さんが喜ぶような人間に成長するために与える休日だ。会社も君たちのために尽くすから、君たちも会社のため、ひいては日本の農業に貢献するために、明日から心を入れ替えて働いてくれると、いまここで僕と約束しようじゃないか。さあ、握手してくれ」そう言って、一番若い中学卒業生たちから、一人ずつの手を握って歩いた。最後に僕の前で右手を差し出した時、僕は黙って首を振った。越部さんは予期していたように僕の前を去った。
 こうして僕は、当初一年間過ごすはずだった研修生生活を、わずか五ヶ月で打ち切った。会議室で首を振った日の夕方、少しばかりの荷物を家に送った僕は、一人で越部さんの家を訪ねた。僕の顔を見て一瞬顔色を変えた越部さんは、昨夜の部屋に通してくれた。僕は言った。「鮮やかな手口でしたね。負けました。これだけ言いたかったので、伺いました」越部さんは何も言わず、本棚から一冊のペーパーバックを抜き出すと、僕にくれた。それはフランス語の『シラノ・ド・ベルジュラック』だった。エドモン・ロスタンの原作通りの戯曲なのか、それとも小説化したものか、一度も開いていないので、わからない。「君を見て思い出した」と言ってくださったのだが、シラノのどこが僕に似ているのか、手塚漫画の「怪傑シラノ」でおおまかなストーリーを知っているだけの僕には、今もって謎である。


 その後越部さんとお会いした記憶がないから、たぶんこの時に聞いた話だと思うのだが、若い時、アメリカのタネ屋に勉強に行った時の話をしてくれた。
 大きな種苗会社の社長の家に泊めてもらった時、「アメリカは、なぜ日本に戦争で勝ったか?」と、聞くんだ。「国力の差だ」と答えると、「そのアメリカの国力を生んだのは何か?」と聞く。首をひねったら、「それはF1。交配種の力だ」と言うんだ。アメリカはF1のトウモロコシを大量生産してロシアに売り、国力を作った。「F1のタネが日本を負かしたんだ」と言うんだよ。だから僕は日本に帰ってから、F1の品種改良に取り組んだんだ。
 僕(野口)の本棚には、『シラノ・ド・ベルジュラック』と並んで、越部さんが翻訳された『農園芸種苗』という貴重な本がある。世界中の園芸植物のタネについて書かれた本で、原題は『AGRICULTURAL AND HORTICULTURAL SEEDS』といい、1961年にFAO(国連食料農業機構)が刊行した本だ。越部さんはこの翻訳を日本種苗協会の機関誌『種苗界』に連載し、1968(昭和53)年12月に日本種苗協会から刊行した。ちょうど僕がみかど育種農場の研修生だった時に、翻訳、連載、校正などをされていたのだろう。
 植物種ごとに気候風土や採種条件、病害虫、播種期から収穫期、収穫量などが詳述されていて、日本にいたのではわからない世界の採種状況を知るための基本史料となっている。(当時の無線綴じは糊が悪く、今ではいくつにも分れてしまっているが、今でも時々参考にしている)
 越部さんは、自宅で、英語勉強会だけでなくフランス語勉強会も開いていたようだ。これからのタネ屋は国際的にならなければいけないという持論をお持ちだった。
 みかど育種は、その後フランスのリマグレン種苗会社に買収され、それ以前に買収された協和種苗と合併させられてみかど協和となり、越部さんのご子息が会長となったが、現在はフランス人社長の経営となっている。何やら少々複雑な思いがするのを禁じ得ない。


上記の後、23才ぐらいで家業のタネ屋の手伝いをするようになる。まず父の希望で、農薬の販売品目を増やすために、「毒劇物取扱士(農業部門)」試験を受験して資格を取得した。次いで母の希望で、店頭に鉢花や花苗等の園芸品を並べるため、当時東久留米市にあった(現在は青梅市)東京久留米花卉園芸卸売市場の買参人になり、チョンブリ、チョンガー等々、市場の符丁も身に付けた。(市場に通い始めた頃、母と一緒の帰路の車の中で、ラジオから流れたのが三億円事件の発生報道だった)農薬や花苗はやがて市内のゴルフ場にも納めるようになり、順調に売上を増やしていったが、オイルショックだったかなんだったか(どうも世間の景気にうとい)で、まったく売れなくなり、市街地の周りに雨後の筍のようにでき始めたホームセンターの増加で、とどめを刺される。
「男子将に死中に活を求むべし。居ながらにして窮すべけんや」という後漢書の言葉に尻を叩かれ、Macintosh PC に手を染め、インターネット通販によって糊口をしのぐようになるまで、この間およそ40年ぐらいか? 出版関係の仕事は「印刷物」という証拠が手元に残るので、記憶を辿るのも容易だが、淡雪やうたかたのように消え去ってゆく日常のアレコレは、ただ忘却の彼方で手がかりを残さない。以後は、手元に残っている印刷物を手がかりに、これまでの4,50年間を振り返ってみたい。
 ただ、強烈に印象に残っていて、いまも講演の中で再三再四繰り返し語っている出来事、例えば昭和40年代後半に、埼玉県久喜園芸試験場で行われた、日本種苗協会主催の原種審査会「金町小かぶの部」で、大手種苗会社のブリーダーたちが、ウチのみやま小かぶを拾い集めながら口々に言っていた「まったくF1のカブなんて、まずくて食えたもんじゃないからな」「まったく。まったく」なんて声は、50年後の今でも耳に残っていて、その後の生き方を決定づけた出来事だ。こんなエポックメーキングな出来事を適宜挟み込みながら、本棚や古机の抽斗の隅をまさぐってみることにしよう。


〒357-0067 埼玉県飯能市小瀬戸192-1 野口のタネ/野口種苗研究所 野口 勲
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