野口種苗ロゴ

野口勲の足跡/"Isao Noguchi's Works"

10代の頃A/「川越高校新聞」から

平成11(1999)年、創立100周年記念出版の「川越高校新聞縮刷版」を送ってもらった。
(21年前の本を探して送ってくれた同窓会事務局の岡部、金子両君に感謝いたします)
新聞部員一年生だった昭和35(1960)年9月10日発行の第52号を見た途端、愕然とした。
2面最下段に小説があり、挿絵を僕が描いているが、まったく記憶から消えていた。
「この下手糞な絵は何だ!」何故、どういう経緯があって描いたかも覚えていない。
二度と見たくないから忘却の海に沈めたのだろうが、老い先短い今ごろ現れるとは。
小説作者も覚えていないが、多分新聞部の先輩(I部長?)作で、命令されたのだろう。
高一の時の「川高新聞」4号分には、この前後二回分の挿絵しか、僕は登場していない。
中学時代「漫画家になりたい」と思ったこともあったが、夢を打ち砕いた絵だったろう。



昭和36年度2号目から2年生6人で編集するようになった。(一年の時は全員奴隷だった)

入学式翌日、昼休みに弁当を食い始めると「箸置けーっ!」と、教室の前後に先輩が乱入。
「弁当は休み時間に食う物だ!」クラブ活動の宣伝と勧誘が、部を交替して二、三日続いた。
「なんとアナクロな」と思ったが、熊谷高校に行くと全員下駄履きで「上には上がある。か」
この「早弁天国」の記事と写真は、学研の『高校コース』に転載された。(写真部にも所属)


高校時代は暗黒時代で、授業中は読書してるか、教師の似顔を描いているか、寝ているかだった。
「何かになるための勉強」より、「自分であり続けるための勉強」をしていた時代だった気がする。
高三で新聞編集は二年生に譲ったが、気になっていた「生徒会則」改正要望の記事だけを書いた。


そのまま卒業したが今「縮刷版」を見ると、翌年「会則改正進む」から「新会則成立」となっていた。


その後、成城大学新聞会で、背広制服の記事を書いたり、「びわの実学校」を創刊した坪田譲治氏を
インタビューしたり、徹夜ハイクのルポを書いたりしたが、2年中退のため、家には何も残っていない。


〒357-0067 埼玉県飯能市小瀬戸192-1 野口のタネ/野口種苗研究所 野口 勲
Tel.042-972-2478 Fax.042-972-7701  E-mail:tanet@noguchiseed.com


野口勲の足跡目次  野口種苗目次