30才で漫画編集稼業から足を洗い、郷里の飯能市に帰ってタネ屋の跡継ぎとなり、見合い結婚をした。
長女誕生から間もなく先輩に飯能青年会議所に誘われる。(70人前後の会員中、昭和19年組が10人程いた)
仮入会期間を終えて正会員になると、広報委員会を希望して「ミニニュース飯能」という広報紙を編集。
それまでのB5判ペラの事業宣伝チラシから、A3判4Pの新聞形式に変え、見開き特集で市民に問題提起。
国道バイパス問題を皮切りに、市街地を取り巻く大規模開発を俎上にのせると、大反響が巻き起こった。
(紙面を取って置いたはずだが50年近く昔のため見つからないので、後日記録をまとめた本で振り返る)
昭和55(1980)年12月、三一書房刊『緑のまちと市民たち』(企画・構成/野口 勲。執筆/宮田 雪)
同書巻末掲載の記録年表の冒頭(左)と、本文中に引用した「ミニニュース飯能」の見開き紙面(右)
巻頭の序文を、昔(関東大震災後)飯能に住まわれた中西悟堂師(日本野鳥の会創始者)にお願いした。
快く書いてくださったのち、東京駅前の日本工業倶楽部会館で行われた米寿のお祝いの招待状を頂いた。
出席して政財界のお歴々の陰に居て、お開きの列に並んで中西師にご挨拶すると「遠くからご苦労様」と
言いながら隣の椅子のご老人に「飯能から来てくれたんだよ」と言い「赤松月船だ」と紹介してくれた。
『緑のまちと市民たち』の中で牧野吉晴の小説『青山白雲』を引用しているから飯能時代を描いた随筆
『閻魔の前で』の破天荒な奔放生活も当然知っている。「どうも」と頭を下げると「小鹿野竹次郎の骨は
俺の寺にあるんだよ。早く飯能に持って帰ってくれよ」とおっしゃる。「ええっ」と驚くと、長い列が
僕のところで止まってしまっているので「いやぁ後日談、後日談」と、続く人たちの方に向き直られた。
『青山白雲』で選挙に出馬した鶴野青年のモデル小鹿野竹次郎は、飯能の文学青年のはしりで、飯能初の
文芸雑誌を主宰したらしいが、その雑誌も残っていない。中西、赤松、牧野氏らと東京に出たと聞いたが
亡くなったそうだ。御詠歌の作者として著名な月船師の寺で眠っていた骨は、結局郷里には帰れなかった。
本書『緑のまちと市民たち』は、その後(いつだっけ?)全国学校図書館協議会選定図書に選ばれている。
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